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  • 私奴婢

    私奴婢 (しぬひ)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    飛鳥時代から平安時代にかけての律令制下において規定された、最下層の身分である「五色の賤」の一つ。貴族や豪族などの個人に私有され、牛馬と同様に売買や譲渡、相続の対象となった存在。

    律令体制における「五色の賤」と私奴婢

    大化の改新以降、国家による一元的な人身支配を目指して整備された律令法(大宝律令など)のもとで、人民は大きく良民(りょうみん)賤民(せんみん)の二つに大別された(良賤の法)。賤民はさらに5つの階層に細分化され、これらは「五色の賤(ごしきのおん)」と呼ばれた。五色の賤には、公的な存在である「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、私的に所有される「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」があった。

    この中で最も権利が制限され、最下層に位置づけられたのが私奴婢である。公奴婢が官庁に属し、一定の年齢に達すれば良民に解放される道があったのに対し、私奴婢は特定の個人(皇族、貴族、豪族など)の私有物として扱われ、一代限りの身分ではなく、その子孫も代々私奴婢の身分を強制された。良民との婚姻は固く禁じられており、私奴婢同士の間に生まれた子供は、母方の主人の所有物となる規定が存在した。

    法的地位と経済的実態

    私奴婢は財産として扱われたため、主人の意思によって売買、譲渡、相続の対象とされた。しかし、完全に権利を否定された奴隷だったわけではない。律令国家は、私奴婢もまた戸籍に登録される国家の「人身」として把握していた。そのため、私奴婢にも良民の3分の1にあたる口分田(くぶんでん)が支給され、そこから「租」を納税する義務を負っていた。また、主人が私奴婢を理由なく殺害した場合は、殺人罪として処罰されるなど、法的な保護も一定程度は存在した。

    このように、国家が私奴婢に限定的ながらも権利と納税義務を認めていた背景には、豪族による私的隷属民の完全な囲い込みを防ぎ、国家による一元的な統治(公地公民制の理念)を維持しようとする意図があった。

    律令制の変容と私奴婢の消滅

    奈良時代から平安時代初期にかけて、偽籍(戸籍の偽り)や浮浪・逃亡が相次ぐと、戸籍に基づく人身支配体制は急速に動揺した。さらに、9世紀から10世紀にかけて公地公民制が形骸化し、荘園の拡大や国衙領における名体制(みょうたいせい)への移行が進むと、戸籍に依拠した「良賤の法」はその実効性を失っていった。

    10世紀初頭に醍醐天皇のもとで出された「延喜荘園整理令」の時代を境に、戸籍の編纂自体が行われなくなり、私奴婢という法的な身分区分は自然消滅していった。しかし、隷属的な労働力が日本社会から完全に消え去ったわけではない。私奴婢という律令法上の呼称は消えたものの、彼らの労働実態は中世の荘園や武士の館における下人(げにん)所従(しょじゅう)といった、新たな私的隷属労働力へと引き継がれていくこととなった。

  • 公奴婢

    公奴婢 (くぬひ)

    701年〜

    【概説】
    律令制下の日本において、国家(官庁)に所有され雑役などに使役された最下層の身分。陵戸・官戸・家人・私奴婢と並ぶ「五色の賤」の一つであり、売買や譲渡、相続の対象とされた。良民とは厳格に区別され、戸籍も別に作成されるなど、古代律令国家の身分支配の根幹をなす存在であった。

    律令社会の身分秩序と「五色の賤」

    飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令法(大宝律令や養老律令)のもとでは、人民は良民(りょうみん)賤民(せんみん)の2つに大別された(良賤制)。このうち賤民身分はさらに5つの階級に細分化され、これらを総称して「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ぶ。五色の賤は、国家や官庁に所属する「官賎」(陵戸・官戸・公奴婢)と、個人や貴族に所有される「私賎」(家人・私奴婢)に分かれており、公奴婢は官賎の中で最も低い地位に位置づけられていた。

    公奴婢の法的地位と実態

    公奴婢は、中央の官庁や地方の国衙(こくが)に配属され、主に雑務や肉体労働に従事した。彼らは国家の財産(官物)として扱われたため、売買や譲渡、分配の対象とされた。一方で、同じ奴婢でも私有民である「私奴婢」と同様に、良民の3分の1にあたる面積の口分田(くぶんでん)が与えられており、完全な人権否定ではなく、一定の生存権や法的権利が認められていた点に日本の律令制の特徴がある。ただし、婚姻においては良民との通婚(良賤通婚)が厳しく禁止され、生まれた子供の身分は「従母法(じゅうぼほう)」に基づき母親の身分を継承したため、公奴婢の身分は固定化されやすかった。

    律令制の弛緩と奴婢制度の消滅

    奈良時代後期から平安時代初期にかけて、律令支配の原則が崩れ始めると、公奴婢をめぐる社会状況も変化した。過酷な租税負担から逃れるために自ら奴婢になる良民(偽籍など)が急増し、国家の財政基盤である良民が減少したため、政府は奴婢身分の維持に消極的になっていった。国家は良民と奴婢の間に生まれた子を良民とするなど、次第に緊縮・解放政策をとるようになり、9世紀から10世紀にかけて律令支配体制が形骸化していく中で、公奴婢を含む奴婢制度自体が実質的に消滅へと向かった。

  • 家人(飛鳥時代)

    家人 (けにん)

    7世紀末〜10世紀初頭

    【概説】
    律令制下の身分制度において、「五色の賤」に数えられた賤民(非自由民)の一種。特定の皇族や貴族、豪族などの権門に私有されて雑役に従事した、売買の対象とはならない身分。

    良賤制と「五色の賤」における位置づけ

    大化の改新から大宝律令の制定に至る過程で、律令国家は戸籍に登録されたすべての人々を「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」の2つに大別する良賤制を確立した。このうち賤民階層は「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ばれる5つの身分に細分化されていた。

    五色の賤は、国家に帰属する公有民である「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、個人や特定の家に帰属する私有民である「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」に大別される。家人は、後者の私有民のなかでも上位に位置づけられ、主家の私的な労働力として奉仕する役割を担わされていた。

    家人の法的権利と私奴婢との違い

    同じ私有の賤民である「私奴婢」と比較した場合、家人には一定の法的権利と高い身分保障が与えられていた。最大の相違点は、家人は売買や譲渡の対象にならないという点である。私奴婢が家畜同様に市場で売買され、財産として譲渡・相続されたのに対し、家人は主家の一員に準じる存在として扱われ、人格を完全に否定されることはなかった。

    また、家人は独自の「戸」を構えて家族生活を営むことが認められていた。さらに、班田収授法においては、良民の3分の1しか支給されなかった奴婢とは異なり、良民と同額の口分田(男性には2段)を支給された。納税面でも、良民に課された租(口分田への課税)は支払う必要があったが、庸や調といった身体的労働や特産物納付の義務、兵役などは免除されていた。これらの点で、家人は賤民のなかで最も良民に近い、中間的な身分であったと言える。

    部民制からの推移と制度の形骸化

    家人の起源は、律令制以前のヤマト政権期における部民制(べみんせい)に求められる。大化の改新によって「公地公民制」へと移行するなかで、豪族たちが私有していた「部曲(かきべ)」や「私属の民」の一部が、国家によって「家人」として再定義された。これは、豪族の私有民を一掃しつつも、旧来の支配層の特権や生活基盤を一定程度維持させるための妥協の産物でもあった。

    奈良時代を通じて機能したこの良賤制であったが、平安時代に入ると、戸籍の形骸化や班田収授法の崩壊に伴って急速に弛緩していった。良民と賤民の間の通婚や、人口の流動化によって区別が曖昧になり、10世紀初頭の延喜年間には五色の賤の制度そのものが実質的に消滅した。しかし、「家人」という言葉は、のちに武士団の主従関係における「部下」を指す言葉へと意味を変え、中世を通じて日本の社会構造に深く根づき続けることとなる。

  • 官戸

    官戸 (かんこ)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    律令制下の日本における五色の賤(ごしきのせん)の一つ。謀反などの重大な犯罪によって身分や財産を国家に没収(没官)された者やその家族から構成され、官司(役所)に配属されて雑役労働に従事した官有の賤民身分。

    律令体制における「五色の賤」と官戸の位置づけ

    古代の日本律令国家(飛鳥時代から奈良・平安時代)では、人民を「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」の二つに大別する良賤制(りょうせんせい)が敷かれていた。このうち、賤民に分類された人々はさらに5つの階級に細分化され、総称して五色の賤と呼ばれた。

    五色の賤は、国家が所有する「官有(公有)」の身分である陵戸(りょうこ)官戸公奴婢(くぬひ)と、個人や有力貴族が所有する「私有」の身分である家人(けにん)私奴婢(しぬひ)に大別される。官戸は、陵戸に次いで官有賤民の第2位に位置づけられており、国家機関の維持に必要な労働力として確保されていた。

    官戸の発生要因と法的特権

    官戸が生まれる主な契機は、政治的謀反や大逆といった重大な刑事犯罪による没官(もつかん)である。犯罪者本人だけでなく、その家族や親族までもが連座して財産とともに没収され、官戸の身分へと落とされた。

    賤民身分でありながらも、官戸は「戸」を形成して家族単位で生活することが法律上認められていた。これが、個人の所有物として売買の対象となった公奴婢や私奴婢との決定的な違いである。また、班田収授法においては良民と同額の口分田(良男に2段、良女はその3分の2)が支給され、課税(租・調・庸)は免除されていたとされる。さらに、年齢が76歳に達した際には良民の身分に解放される「免良(めんりょう)」の規定もあり、他の賤民に比べて良民に近い性格を併せ持っていた。

    官戸制度の解体と歴史的意義

    官戸は、大宝律令や養老律令の規定に基づき、主に中央の官衙(役所)で文書の運搬や清掃、各種製造などの雑役労働に動員された。しかし、奈良時代後期から平安時代へと進むにつれて、班田収授の崩壊とともに良賤制そのものの維持が困難となった。

    10世紀初頭、律令体制の崩壊が進む中で、907年(延喜7年)には公奴婢の制度が実質的に廃止された。これにより、官有賤民の体系は事実上消滅し、官戸も歴史の表舞台から姿を消した。官戸制度は、天皇を中心とする律令国家が、法的な刑罰を通じて人民を国家の直接的な使役労働力として再編成・管理しようとした、古代専制国家の特異な支配構造を示す重要な指標である。

  • 陵戸

    陵戸 (りょうこ)

    701年〜800年

    【概説】
    古代の律令制下における身分制度において、「五色の賤」の一つに数えられた賤民身分。天皇や皇族の陵墓(墓所)の守衛や清掃、維持管理を世襲で担当した。一般の良民に近い特権的な側面を持ち、のちの律令制の変質に伴って良民へと統合されていった。

    律令体制における「五色の賤」と陵戸の法的位置づけ

    大宝律令(701年)および養老律令(718年)において、人々の身分は自由民である「良民(りょうみん)」と、非自由民である「賤民(せんみん)」に大別された。このうち賤民は5つのカテゴリーに分類され、これを「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ぶ。陵戸はこの五色の賤の中で、官有の賤民(官賤)の最上位に位置づけられていた。

    陵戸は、同じく官賤に属する官戸(かんこ)や公奴婢(くぬひ)、また私賤である家人(けにん)や私奴婢(しぬひ)と異なり、完全に他者の所有物として使役される存在ではなかった。独自の戸(家族共同体)を構えることが認められており、その点では良民に近い生活実態を持っていた。しかし、良民との婚姻(良賤通婚)は原則として禁じられており、身分は世襲されるなど、法的な格差は厳然として存在した。

    陵墓管理という国家任務とその特権

    陵戸の主な任務は、天皇や皇族の陵墓の守衛や清掃であり、これは治部省に属する諸陵司(のちの諸陵寮)の管轄下に置かれていた。古代律令国家にとって、歴代天皇の陵墓を神聖なものとして維持管理することは、天皇の支配の正当性や権威を示す極めて重要な国家事業であった。そのため、陵戸は国家から直接指定された神聖な任務を帯びる者として扱われた。

    この特殊な役割ゆえに、陵戸には一定の特権が与えられていた。彼らは口分田(くぶんでん)を良民と同額(男子に二段など)支給され、さらに一般の良民に課せられた重い税負担である租・庸・調や雑徭(ぞうよう)などの課役が原則として免除されていた。こうした優遇措置は、彼らが陵墓の守衛に専念できるようにするためのものであった。

    律令社会の変容と陵戸の良民化

    奈良時代中期以降、律令支配の弛緩に伴い、良民の没落や浮浪・逃亡が深刻化すると、重い課役から逃れるために自ら陵戸に偽籍(戸籍を偽ること)する者が現れるなど、制度的な動揺が見られるようになった。また、特定の家系に管理負担が集中することへの不満も高まっていった。

    こうした状況を受け、平安時代初期の延暦19年(800年)、桓武天皇のもとで陵戸の身分は廃止され、彼らは一斉に良民へ編入(良民化)されることとなった。これは、国家が陵墓の維持方法を特定の賤民の世襲から、周辺の良民(近陵の住民など)に交代で守衛任務を課す方式(守戸制度など)へと移行させたことを意味している。この陵戸の廃止は、古代国家の身分秩序が形骸化し、中世的な社会秩序へと移行していく過渡期の象徴的な出来事であった。

  • 越後国

    越後国 (えちごのくに)

    7世紀末〜1871年

    【概説】
    北陸道に位置し、現在の新潟県の本州部分(佐渡国を除く地域)に比定される令制国。古代の律令国家形成期において、東北地方の蝦夷(えみし)に対する軍事・政治的進出の最前線拠点として極めて重要な役割を果たした。大化の改新期には渟足柵磐舟柵が設置され、のちに越国が分割されることで成立した。

    「北進」する律令国家と越後国の成立

    古代の日本において、現在の北陸から東北の日本海側にかけての地域は「越(こし)の国」と呼ばれていた。7世紀中葉、大和朝廷による王権の拡大(のちの律令国家形成)にともない、この地域への支配の浸透が図られた。その象徴が、大化の改新(645年)の直後に置かれた城柵(じょうさく)である。647年に渟足柵(ぬたりのさく)、翌648年に磐舟柵(いわふねのさく)が設置され、これらは対蝦夷政策の軍事・行政拠点となった。

    その後、持統天皇期から文武天皇期(7世紀末から8世紀初頭)にかけての令制国整備にともない、広大な越国は越前・越中・越後の3国に分割された(のちに越前から能登、越中から加賀が分立)。さらに708年には、越後国の北方にあった和銅(わどう)年間の新領土が編入され、出羽郡が置かれた。この出羽郡はのちに出羽国(山形県・秋田県)として独立し、越後国は出羽国・陸奥国とともに東国・北陸の境界領域としての性格を強めていくこととなる。

    蝦夷政策の拠点から日本海交易の要衝へ

    越後国は、単なる北方の境界であるだけでなく、日本海を経由した人・物の往来や外交(渤海使の来航など)においても重要な役割を担った。当初は蝦夷に対する防衛・制圧の最前線であったが、平安時代に進むにつれて前線がさらに北(出羽・陸奥の深部)へ移動したため、越後国は後方から物資や兵力を供給するロジスティクスの拠点へと変化した。

    中世に入ると、守護大名や国人領主の割拠を経て、戦国時代には上杉謙信に代表される有力戦国大名の領国として一大軍事・政治拠点となった。さらに近世には、北前船の西回り航路の整備にともない、日本海交易の寄港地(三国港や新潟港など)として経済的な繁栄を遂げた。肥沃な平野部での新田開発も進み、日本随一の米どころとしての地位を確立していく。このように、越後国は古代の「国家の境界」から、中世・近世を通じて「軍事・経済の要衝」へとその歴史的意義を変遷させていったのである。

  • 大化の改新

    大化の改新

    645年〜

    【概説】
    645年(大化元年)の乙巳の変を契機として開始された、公地公民制などの導入を目指した政治体制の抜本的な改革。中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり、蘇我氏の専制を打倒して天皇中心の中央集権国家の建設を推し進めた。緊迫する東アジア情勢を背景に、唐の制度に倣った国家体制の近代化を図った古代日本における最大の歴史的転換点である。

    乙巳の変と新政権の樹立

    大化の改新の第一歩は、645年に決行された乙巳の変(いっしのへん)という宮廷クーデターであった。当時、朝廷内では大臣(おおおみ)であった蘇我蝦夷・入鹿の父子が強大な権力を握り、天皇をも凌ぐ専制的な政治を行っていた。これに対し、王政復古と天皇中心の国家建設を目指した中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らは、飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿を暗殺し、翌日に蝦夷を自害に追い込んで蘇我氏本宗家を滅亡させた。

    クーデターの成功後、皇極天皇は退位し、軽皇子が孝徳天皇として即位した。新政権は中大兄皇子が皇太子として実権を握り、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足が任命された。また、遣隋使・遣唐使として大陸に渡っていた高向玄理が国博士(くにのはかせ)という政治顧問に起用され、唐の律令制度をモデルとした国政改革の体制が整えられた。この時、日本で初めてとなる元号「大化」が定められ、都も飛鳥から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へと遷された。

    緊迫する東アジア情勢と改革の背景

    この時期に急進的な国家改造が求められた最大の理由は、当時の東アジアにおける緊迫した国際情勢である。中国大陸では、強大な統一帝国であるが勢力を拡大し、644年には朝鮮半島の高句麗への大規模な遠征を開始していた。この唐の軍事的脅威は、百済や新羅といった朝鮮半島の諸国のみならず、海を隔てた日本(倭国)にとっても国家の存亡に関わる重大な危機であった。

    旧来のヤマト政権は、大王(天皇)を頂点としつつも、各地の豪族がそれぞれの私有地(田荘)や私有民(部曲)を支配する緩やかな豪族連合体制であった。しかし、唐や新羅の脅威に対抗し独立を維持するためには、国家の全土と人民を直接支配し、軍事力と経済力を一元的に動員できる強力な中央集権国家を早急に構築する必要があった。大化の改新は、単なる国内の権力闘争の結果ではなく、東アジアの国際的な激動に呼応した国防体制の強化という切実な目的を持っていたのである。

    「改新の詔」と公地公民制の導入

    646年(大化2年)正月、新政権の基本方針として示されたのが「改新の詔(かいしんのみことのり)」である。『日本書紀』によれば、この詔は以下の4か条の主文から成る。

    第一条では、豪族が土地と人民を私有する制度を廃止し、すべてを天皇(国家)の所有とする公地公民制が宣言された。これは旧来の社会体制を根底から覆す最も重要な改革であった。第二条では、中央と地方の行政区画である国・郡(当時は「評」)・里の制度を整備し、交通・通信網である駅馬・伝馬の制度や関所を設けることが定められた。第三条では、戸籍と計帳を作成し、それに基づいて農民に土地を割り当てる班田収授法の実施が規定された。そして第四条では、旧来の税制を改め、統一的な新たな租税制度(租・庸・調の源流)を導入することが明記された。

    これらの一連の政策は、国家が人民を個別に把握し、土地を与えて課税と兵役の義務を負わせるという律令国家の根幹をなす仕組みの青写真であった。

    歴史的意義と最新の研究動向

    大化の改新は、日本が古代的な豪族連合国家から、唐をモデルとした法治国家(律令国家)へと飛躍する決定的な契機となった。この改革によって蒔かれた種は、その後の白村江の戦い(663年)の敗北によるさらなる国家危機の克服や、壬申の乱(672年)を経た天武・持統朝における権力強化を経て、701年の大宝律令の制定によって最終的な結実を見ることになる。

    ただし、近年の歴史学研究においては、『日本書紀』に記された「改新の詔」の内容が、646年当時のものをそのまま伝えているわけではないことが明らかになっている。例えば、藤原宮跡などから出土した木簡の調査により、当時は「郡」ではなく「評(こおり)」という字が使われていたことが判明した。これにより、『日本書紀』の記述は、後の大宝律令編纂時に過去の歴史を正当化するため、後世の制度の用語を用いて潤色(修正)されたものであることが定説となっている。

    したがって現在では、大化の改新を「645年の一瞬にして成し遂げられた劇的な変化」と捉えるのではなく、「乙巳の変を起点とし、半世紀以上の歳月をかけて漸進的・段階的に進められた律令国家形成への持続的なプロセス」として理解するのが歴史学界における共通認識となっている。

  • 衛士

    衛士 (えじ)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    律令制下において、地方の軍団から選抜されて都に上り、宮廷や京内の警備にあたった兵士。五衛府などの指揮のもとで内裏の守衛や行幸の供奉に従事し、古代の中央集権体制を軍事面から支えた存在。

    律令軍制における衛士の役割と組織

    飛鳥時代後期から奈良時代にかけて整備された律令国家において、戸籍に登録された正丁(21歳から60歳までの健康な男子)の3分の1が兵士として徴用され、各国に置かれた軍団に配属された。この軍団の兵士の中から選抜されて平城京などの都へ派遣されたのが衛士である。一方、東国から徴発されて九州(大宰府)の防備に赴いた兵士は防人(さきもり)と呼ばれ、衛士と並ぶ律令軍制の二大柱であった。

    都に上った衛士は、宮廷の警備や治安維持を司る五衛府(衛門府・左右衛士府・左右兵衛府など、時代により変遷あり)の管轄下に置かれた。主な任務は、宮門の開閉や守衛、宮殿内部の巡検、さらに天皇や皇族が外出する際の護衛(行幸供奉)など、国家の最高中枢を物理的に護持することであった。防人の任期が3年であったのに対し、衛士の任期は原則として1年間と定められ、毎年交代で治安維持にあたった。

    過酷な負担と律令体制の変質

    一見すると都での華やかな護衛任務にも思える衛士だが、実態は極めて過酷であった。衛士に課された最大の課題は、都での勤務期間中および往復の道中における食糧(資糧)や衣服、武器、さらには旅費に至るまで、その多くが自己負担(自弁)であった点である。地方の農民にとって、農業生産活動から完全に離脱させられるだけでなく、多大な経済的負担を強いられる衛士の役務は、一家の没落に直結するものであった。

    このため、任期を終えても自力で帰郷できずに京内で浮浪化する者や、帰路に行き倒れる者が後を絶たず、衛士の逃亡や配属の忌避が常態化した。こうした過酷な負担は、農民が戸籍を偽って兵役を免れようとする「偽籍」や、土地を捨てて逃亡する「浮浪」を激増させ、律令支配の根幹である人身支配(個別人身支配)を動揺させる一因となった。やがて兵士の質的低下や定員割れが進むと、朝廷は従来の国民皆兵的な軍制を維持できなくなり、792(延暦11)年には一部を除き諸国の軍団を廃止。郡司の子弟などからなる志願制の兵力である健児(こんでい)へと移行し、衛士を中心とする初期の律令軍制は実質的に崩壊へと向かうこととなった。

  • 兵士

    兵士 (ひょうし)

    7世紀末〜10世紀初頭

    【概説】
    律令制に基づいて諸国の軍団に徴発され、軍事訓練を受けながら治安維持や国境警備にあたった農民。正丁(21〜60歳の健康な男性)の3人に1人の割合で割り当てられ、自弁による重い経済的・身体的負担に苦しめられた存在。

    軍団制と兵士の徴発システム

    大化の改新から大宝律令の制定に至る過程で、律令国家は天皇を中心とする中央集権体制を維持するため、強力な軍事組織を整備した。その末端を支えたのが、国府などに置かれた軍団と、そこに配備された兵士(ひょうし)である。

    兵士は、戸籍に登録された21歳から60歳までの健康な男性(正丁)の中から、3人に1人の割合で徴発された。彼らは平時は自ら耕作を行い、交代で軍団に赴いて武芸の訓練を受け、国府の警備や国内の治安維持にあたった。このような「皆兵制」に近い皆労の軍事義務は、唐の折衝府制度を模倣したものであった。

    過酷な負担と「衛士」「防人」の悲劇

    国家による兵士の徴発は、農民にとって耐え難い重荷であった。その最大の要因は、弓矢、甲冑、武器、さらには遠征中の食料(兵糧)や被服に至るまで、調度品のほとんどが自弁(自己負担)であった点にある。これにより、兵士を出した農家は急速に困窮していった。

    さらに、兵士の中から選抜されて平城京などの都に派遣された衛士(えじ)や、九州北部の国境警備に送られた防人(さきもり)の役務は過酷を極めた。特に防人は東国から多くの兵士が徴発され、現地へ向かう旅費すら自己負担であった。この惨状は『万葉集』の「防人歌」にも生々しく描かれており、過酷な負担に耐えかねた農民の浮浪や逃亡を誘発し、律令制崩壊の一因となった。

    軍団制の解体と武士の誕生への系譜

    平安時代に入ると、農民の逃亡と兵質の低下により、軍団制は急速に形骸化した。これに対し桓武天皇は、792年(延暦11年)に佐渡や対馬などの国境離島を除き、全国の軍団と兵士を廃止した。これに代わって導入されたのが、郡司の子弟や有力農民などの志願者からなる少数精鋭の健児(こんでい)制である。

    一般農民の動員(兵士)をあきらめ、地方守護を地方の「武芸の家」に委ねる方針への転換は、その後の地方社会の武装化を加速させた。これがのちに、自らの土地を守るために武装した「武士」が誕生する歴史的土壌となり、中世の武家社会へとつながっていくこととなる。

  • 軍団

    軍団

    7世紀末〜11世紀初頭

    【概説】
    律令制下において、諸国の国府周辺に配備された国家の正規軍組織。戸籍に登録された正丁の3人に1人を徴発して編成され、地方の治安維持や国境警備、都の警護などを担った。

    律令体制の確立と軍団創設の背景

    軍団の創設は、7世紀後半の緊迫した東アジアの国際情勢と深く結びついている。663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した大和政権は、本土防衛のために急速な国家体制の整備を迫られた。天智・天武・持統天皇の時代を通じて中央集権化が進められ、その結晶として701年に大宝律令が制定されると、地方支配と防衛の要として全国に軍団が配置されることとなった。

    軍団は、原則として各国に1〜数個所(1軍団は概ね500〜1000人規模)設置され、地方官である国司の指揮下に置かれた。これは、それまでの大豪族が私有していた軍事力を国家が一元的に管理・動員する体制へ移行したことを意味し、天皇を中心とする中央集権国家の象徴的な制度であった。

    軍団の組織構造と兵士の過酷な実態

    軍団の兵士は、各戸籍に登録された正丁(21歳から60歳までの健康な男性)の3人に1人の割合で徴発された。彼らは平時は農業に従事しつつ、交代で軍団に赴いて訓練を受けた。また、軍団の兵士の中から、都の警備を担当する衛士(えじ)や、九州の国防を担う防人(さきもり)が選抜され、それぞれ現地へ派遣された。

    しかし、この兵役は農民にとって極めて過酷なものであった。兵士の武器や衣服、食糧などの大半は自弁(自己負担)とされ、さらに衛士や防人として赴任する際の往復の旅費や食糧も自己負担であった。この重い負担は農民の生活を困窮させ、籍を偽る「浮浪」や逃亡、あるいは戸籍の性別を偽る「偽籍」といった抵抗を招き、律令支配の根幹を揺るがす要因となっていった。

    軍団の衰退と「健児の制」への移行

    8世紀後半になると、兵士の質的低下や逃亡の続出により、農民徴兵制に基づく軍団制度は事実上機能しなくなっていった。こうした状況を受け、792年(延暦11年)、桓武天皇は東北地方(陸奥・出羽)や九州(西海道)、対領外(佐渡)などの国境・辺境地域を除き、全国の軍団を廃止した。

    軍団に代わって導入されたのが健児(こんでい)の制である。これは、郡司の子弟や裕福な農民などの「不逞でない者」から少数精鋭の志願兵を募り、地方の治安維持に当たらせる制度であった。この軍事制度の転換は、国民皆兵的な律令軍制の終焉を意味するとともに、地方の治安維持が在地の富豪層や武芸専門の家系に依存する契機となり、後の武士の発生へとつながる重要な画期となった。