ブログ

  • 義倉

    義倉 (ぎそう)

    701年制定

    【概説】
    飛鳥時代末期の大宝律令によって制定された、飢饉や災害時の救済を目的とした公的な穀物備蓄制度。農民からその貧富の度合いに応じて主食以外の雑穀を強制的に徴収・貯蔵し、非常時の配給や種籾の貸し出しに充てられた。

    律令制下における義倉の仕組み

    義倉は、701年の大宝律令の制定にともない、民部省の管轄下で全国的に整備された。主な目的は、凶作や疫病、天災による飢饉が発生した際に、農民(公民)を飢えから救い、国家の基盤である農業経営を維持することであった。

    備蓄される穀物は、主食かつ基本税目であった「稲(租)」ではなく、長期保存に適した粟(あわ)や麦、大豆などの雑穀が中心であった。徴収にあたっては、各世帯(戸)を資産状況に応じて9段階に分けた「戸等(ことう)」基準が用いられ、上戸・中戸など富裕な戸から多く徴収し、下戸などの貧困層は免除されるなど、一種の累進的な課税方式がとられた。集められた穀物は郡ごとに設置された「郡倉(ぐうそう)」に保管され、地方官である郡司によって管理された。

    中国の制度受容と導入の背景

    日本の義倉制度は、隋や唐などの中国王朝で行われていた同名の社会福祉制度を範としている。中国の隋代に長孫平が提唱した「社倉(のちの義倉)」が起源であり、唐代に国家的な制度として確立された。

    当時の大和政権は、中国の高度な律令技術を導入して中央集権化(律令国家の形成)を推し進めていた。国家が機能するためには、戸籍に登録された農民(公民)から安定して「租・庸・調」や労役を徴収し続ける必要があった。そのため、天災によって農民が容易に没落・浮浪化することを防ぐセーフティネットとしての防災・救済システムが、国家支配の維持に不可欠と考えられたのである。

    制度の変質と後世への影響

    奈良時代から平安時代へと移行し、律令制が徐々に弛緩していくと、義倉の運用にも乱れが生じるようになった。地方官(国司や郡司)による備蓄穀物の不正な流用や、徴収の形骸化が進み、実際に飢饉が発生した際には十分な救済機能を発揮できないケースが増加した。さらに、律令制そのものの崩壊とともに、古代の義倉制度は次第に機能停止へと向かった。

    しかし、「非常時に備えて地域社会で穀物を備蓄する」という思想とシステムは、その後の日本歴史において形を変えて受け継がれた。中世の社倉や、近世(江戸時代)に諸藩や幕府(寛政の改革における社倉・義倉の推奨など)によって広く整備された救荒制度は、この古代の義倉をルーツとしており、日本の社会保障の歴史において先駆的な意義を持つ制度であったといえる。

  • 私出挙

    私出挙 (しすいこ)

    7世紀〜11世紀頃

    【概説】
    古代日本において、貴族や豪族、大寺社などの富裕層が、農民に稲や財物を貸し付け、高い利息を徴収した私的な貸付制度。律令国家が地方統治と財政確保のために行った「公出挙(くすいこ)」に対比されるもので、農民の困窮化や初期荘園形成の引き金となった経済慣行。

    出挙制度の基本構造と「公」「私」の区分

    「出挙」とは、本来は春の端境期や植え付け期に種籾(または食糧用の稲)を農民に貸し出し、秋の収穫期に利息とともに回収する、共同体内の相互扶助に端を発した制度である。律令国家の形成に伴い、この慣行は国家の財政補填システムである公出挙として制度化された。これに対し、皇族や貴族、地方の有力豪族、大寺社などの私的な富裕層が、自らの富を増殖させるために行った貸付が私出挙である。飛鳥時代から大宝律令の制定(701年)を経て奈良・平安時代にかけて、公出挙と並行して広く行われた。

    高利による農民の窮乏と階層分化

    公出挙の利率が初期は5割(50%)、のちに3割(30%)へと制限されたのに対し、私出挙は法令による規制があったものの、実際には10割(100%、すなわち倍返し)に達するような暴利が横行した。天災や不作によって返済不能に陥った農民は、自らの口分田や身分を担保にせざるを得ず、事実上の債務奴隷として有力者に隷属していくこととなった。このことは、律令制が前提とした「公民(国家に直接支配される農民)」の減少を招き、社会の階層分化を急速に進める要因となった。

    国家による抑制策と荘園制への展開

    農民の没落や、税源となる公民の減少(浮浪・逃亡、偽籍の増加)を恐れた朝廷は、度々「私出挙制限令」を発令した。私出挙の利息の上限を元本の5割までと定めたり、公出挙の回収を私出挙よりも優先させるなどの法的規制を試みたが、実効性は薄かった。やがて、負債を抱えた農民が自らの土地を有力者に寄進して保護を求める動き(寄進地系荘園の源流)や、富豪層が私出挙の負債者を私属民(不輸・不入の権を背景にした荘園の耕作者など)として囲い込む動きが活発化し、後の荘園公領制へとつながる社会構造の変革を準備することとなった。

  • 公出挙

    公出挙 (古代律令期)

    【概説】
    古代の律令制下において、国家や国衙が財源確保と農民救済を目的として行った稲の貸付制度。春の端境期に種籾や食糧としての稲を農民に貸し出し、秋の収穫期に利息を上乗せして回収する仕組みであったが、のちに強制的に貸し付ける実質的な税へと変質した。

    出挙制度の起源と「公」・「私」の区分

    出挙(すいこ)の起源は、律令制以前から日本の農村共同体で行われていた、春の農繁期における種籾の貸し出しと秋の共同返済という相互扶助的な慣行にさかのぼる。大化の改新を経て律令国家が形成される過程で、この慣行が国家制度として組み込まれた。

    制度としての出挙には、国司や郡司などの官司が公金(官物である稲)を原資として行う「公出挙」と、貴族や地方豪族が私的な富を貸し出す「私出挙」の2種類が存在した。律令政府は、私出挙によって豪族が農民を隷属化(非自由民化)することを防ぐため、私出挙の利率を制限する一方、公出挙を推奨して国家による人民支配の強化を図った。

    大宝律令や養老律令の規定によると、公出挙の利率は当初年5割(50%)と定められ、のちに農民負担軽減のために年3割(30%)へと引き下げられた。これに対し、私出挙は年10割(100%)から後に年5割へと制限された。公出挙の利息として徴収された稲は利稲(りとう)と呼ばれ、国衙の重要な財源となった。

    救済制度から「強制的な税」への変質

    公出挙は本来、春窮期における農民の飢餓を防ぎ、農業生産力を維持するという勧農(農業振興)・社会保障的な側面を持っていた。しかし、律令財政が窮乏し、平城京の建設や大仏造立、対外緊張に伴う軍事費などの増大によって国衙(地方役所)の経費が不足すると、その性格は大きく変容した。

    国司たちは、不足する地方経費(国用)を補うため、公出挙を「借りる必要のない富裕な農民」や、逆に「返済能力のない貧困層」に対しても、半ば強制的に割り当てて貸し付けるようになった。これにより、公出挙は農民救済のための金融措置ではなく、事実上の付加税(強制課税)へと変質した。返済が滞った農民は、自らの口分田を失ったり、浮浪・逃亡して戸籍から離脱したりする原因となり、律令制の基本である「人頭税支配」を揺るがす結果となった。

    律令体制の崩壊と公出挙の税額化

    平安時代に入ると、戸籍に基づく班田収授の励行が困難となり、人頭税である租・庸・調の徴収が激減した。これに対処するため、朝廷や国司はますます公出挙への依存度を強めた。9世紀には、諸国の国衙が運営費の大部分を公出挙の利息(利稲)で賄う体制が確立した。

    この段階になると、実際に稲を貸し付けるプロセスすら省略され、最初から一定の土地(名田など)に対して公出挙の利息相当額を上乗せして徴収する「出挙の税額化」が進んだ。これは、人頭を基準とする課税から、土地を対象とする課税への転換を意味し、中世的な名主(みょうしゅ)による請作体制や、国衙領・荘園における新たな年貢・公事の体系へとつながっていく歴史的転換点となった。

  • 出挙

    出挙 (すいこ)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    古代の日本において、春の端境期に種籾などの稲を農民に貸し付け、秋の収穫時に高率の利息を上乗せして回収した貸付制度。当初は共同体内の相互扶助や営農支援を目的としていたが、律令体制の整備に伴い、国家が強制的に行う実質的な付加税へと変質した。

    共同体の相互扶助から律令国家の制度へ

    出挙の起源は、律令制以前の古代社会における共同体内の慣習に求められる。春の植え付け期に主食や種籾が不足した農民に対し、共同体の首長などが稲を貸し出し、秋の収穫後に利息を付けて返済させる相互扶助的な仕組みが存在していた。これが大化の改新以降の律令国家形成期に、国家の重要な財政制度として組み込まれることとなった。

    律令制下の出挙は、国郡司が官物の正税(主として租として徴収された稲)を原資として貸し付ける公出挙(くすいこ)と、貴族や寺社、地方の有力者が私的な富を原資として行う私出挙(しくすいこ)の2種類に大別された。国家は私出挙に対して厳しい制限を設ける一方、公出挙を地方官衙の財政基盤として重視した。

    利息の徴収と「税」への変質

    公出挙は、当初こそ農民の飢饉対策や営農の安定という名目(賑給など)を持っていたが、次第にその性格を変貌させた。公出挙の利息は、大宝律令下では5割(後に養老律令下で3割に引き下げ)という極めて高い比率に設定されていた。これは、国家が公認する事実上の高利貸しであった。

    奈良時代中期以降、律令国家の財政が窮迫すると、公出挙は困窮した農民を救済するためではなく、財源を確保するために強制的に割り当てられて貸し付けられるようになった。こうして出挙は、農民の意志とは無関係に課される実質的な租税(付加税)となり、租・庸・調や防人・兵士の役と並んで、百姓を苦しめる重い負担へと変質していった。

    律令体制の動揺と公出挙の展開

    公出挙による利息収入(出挙子)は、国衙(地方政府)の経費を賄う「国用」の大部分を占めるようになり、地方統治において不可欠なものとなった。しかし、高利の負担に耐えかねた農民は、戸籍を偽る(偽籍)か、土地を捨てて逃亡(浮浪・逃亡)する道を選んだ。これにより、政府が把握する課口(課税対象者)が激減することとなった。

    平安時代に入ると、公出挙の未進(未払い)が深刻化し、国衙の財政は危機に瀕した。これに対し、政府は従来の「人(戸籍)」を基準とした課税から、名田と呼ばれる「土地」を基準とした課税へと舵を切ることになる。出挙制度の形骸化と強制税化へのプロセスは、古代律令国家の支配体制そのものが変質し、中世的な荘園公領制へと移行していく重要な契機となった。

  • 運脚

    運脚 (うんきゃく)

    7世紀末〜10世紀頃

    【概説】
    律令制下において、地方の農民(正丁)が調や庸などの税を都まで自力で運搬した過酷な労役。往復の旅費や食料がすべて自己負担であったため、農民を困窮させ、律令体制崩壊の一因となった交通・税制上の制度。

    律令体制における「運脚」の仕組みと役割

    飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された大宝律令および養老律令のもとで、日本の統治システムは中央集権的な民衆支配を確立した。その財政を支えたのが、租・庸・調に代表される税制である。このうち、米を納める「租」は地方の国衙の財源(正税)となったが、絹や布を納める「庸」、および地方の特産品を納める「調」は、中央政府(都)の財源として平城京などの都へ直接送る必要があった。

    この庸や調を都まで送り届ける役割を課されたのが、地方の農民(21〜60歳の健康な男性である正丁)から徴発された運脚である。運脚は、郡司などの地方官の引率のもと、物資を背負うか馬に載せて、徒歩で都を目指した。これは単なる輸送手段ではなく、農民に義務づけられた「労役」の一種として位置づけられていた。

    民衆を苦しめた「自己負担」の過酷な実態

    運脚が極めて過酷であった最大の理由は、往復の道中に必要な食料(道糧)や衣服などの費用が、すべて農民自身の自己負担(自弁)であった点にある。東国などの都から遠く離れた地域からの運脚は、往復に数ヶ月を要することも珍しくなかった。そのため、出発時に用意した食料が途中で底をつき、飢えや疲労、疾病によって行き倒れ、道端で命を落とす者が後を絶たなかった。

    万葉集の歌人である山上憶良が著した『貧窮問答歌』や、各地の防人・運脚の悲哀を歌った防人歌には、重税と運脚の負担によって家庭が崩壊していく農民の窮状がリアルに描かれている。仮に無事に都へたどり着き、税を納めることができたとしても、復路の食料が残っておらず、帰郷できずに都の周辺で浮浪者(浮浪・逃亡)となるか、そのまま行き倒れるケースが多発した。

    運脚の崩壊と律令制の変容

    このあまりにも過酷な運脚の負担は、農民たちの間に「逃亡」や「偽籍(戸籍を偽って男を女と偽り、課税を逃れること)」を横行させる直接的な原因となった。これにより、律令制が前提としていた「公地公民制」や戸籍に基づく人身支配は急速に動揺していくこととなる。

    平安時代に入ると、農民に直接物資を運ばせる運脚の制度は事実上破綻した。代わって、国司が租税の徴収と都への送入を請け負うシステム(国衙領の形成)へと移行し、物資の輸送も専門の運送業者や馬借などの動員、あるいは水運の活用へとシフトしていく。運脚の終焉は、古代律令国家が「個々の農民を直接支配する仕組み」から「土地を通じて徴税する中世的な国家体制(王朝国家体制)」へと変容していく過程を象徴している。

  • 北路

    北路 (ほくろ)

    7世紀後半〜

    【概説】
    飛鳥時代から奈良時代にかけて用いられた、律令制における五畿七道の一つ「北陸道」の古称、および都から日本海沿岸を北上して東北地方へと至る交通路。中央集権国家の形成過程において、北陸地方の掌握と東北地方への勢力拡大(対蝦夷政策)を支える軍事・政治上の重要ルートとして機能した。

    律令国家の拡大と「北路」の形成

    飛鳥時代の7世紀後半、天武・持統天皇の治世下において、日本は戸籍の作成や都城の建設と並び、地方支配を円滑にするための官道(道路網)の整備を進めた。このとき整備された交通体系が「五畿七道」であり、そのうち現在の北陸地方(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)を貫くルートが当初「北路」(のちの北陸道)と呼ばれた。北路は、畿内から滋賀平野(近江国)を経て愛発関を越え、日本海側を北東へと進む経路を指し、険しい山岳地帯を避けて日本海の海運と陸路を柔軟に組み合わせながら機能していた点に特徴がある。

    軍事・開拓の最前線としての歴史的役割

    飛鳥時代における北路は、単なる地方行政のための道路にとどまらず、国家の支配領域を北方へと推し進めるための軍事・防衛の生命線であった。斉明天皇の時代(658〜660年)には、阿倍比羅夫が日本海を北上して蝦夷を征討・服属させ、さらに北方民の粛慎と交戦している。この軍事行動を支えたのが北路(日本海ルート)の兵站能力である。これに先立ち、大化の改新(645年)直後には、現在の新潟県域に渟足柵(ぬたりのさく、647年設置)や磐舟柵(いわふねのさく、648年設置)といった軍事拠点が築かれており、北路はこれら最前線の城柵と大和朝廷を結ぶ連絡路として極めて重要な意義を持っていた。

    対外外交と北陸地域への文化的影響

    さらに、北路は国際的な外交ルートとしても機能した。当時は朝鮮半島の新羅や、のちに中国東北部に建国された渤海からの使節が日本海を渡って北陸地方(特に能登や越前)に漂着・来航することが多く、これらの外交使節を都へと先導・護送する際にも北路が利用された。このように、北路は物資や軍隊の移動だけでなく、大陸の文化や技術が畿内へと流入するパイプラインでもあり、のちの「北陸道」へと名称を変えてからも、中世の日本海五大津の隆盛や近世の「北前船」の活躍につながる、日本海海運と陸路が融合した経済・文化の基盤を作り上げたのである。

  • 三関(鈴鹿・不破・愛発)

    三関(鈴鹿・不破・愛発) (さんげん(すずか・ふわ・あらち)

    7世紀後半〜789年

    【概説】
    古代の日本において、王権の心臓部である畿内を防衛するために、東海道・東山道・北陸道の要衝に設置された3つの関所。伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関の総称であり、軍事・交通の監視において極めて重要な役割を果たした。

    壬申の乱と三関の起源

    三関の設置と重要性の認識は、672年に起きた古代最大の内乱である壬申の乱に深く結びついている。天智天皇の後継者を巡るこの争いにおいて、吉野から脱出した大海人皇子(のちの天武天皇)は、いち早く美濃国を抑えて東国からの軍勢を動員し、近江大津宮の大友皇子側を破った。この歴史的経験から、東国からの軍事進出を阻止し、同時に反乱分子が東国へ逃亡するのを防ぐため、東国へ通じる主要街道の結節点に関所を設ける重要性が痛感された。天武朝から持統朝にかけて、東海道の鈴鹿関(三重県)、東山道の不破関(岐阜県)、北陸道の愛発関(福井県)の3つが国家の防衛ラインとして整備され、畿内と「東国(化外に近い地域を含む広い東部地域)」を分かつ歴史的な境界線となった。

    国家の非常事態における「固関」制度

    律令体制下における三関の最も重要な役割は、国家的な危機に際して行われる固関(こげん)の制度である。天皇の崩御や太上天皇・皇后の崩御、あるいは謀反などの重大な変事が首都で発生した際、朝廷はただちに固関使(こげんし)と呼ばれる臨時の使者を各関所に派遣した。関所は閉鎖されて通行が完全に遮断され、兵力を動員して防備が固められた。これは、中央での政変の混乱が東国に波及して大規模な内乱へと発展するのを未然に防ぎ、あるいは謀反人が東国へ逃れて再起を図るのを阻止するための、安全保障上の防衛システムであった。実際、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際などには、この固関が実施され、仲麻呂の東国逃亡を阻止する上で決定的な役割を果たした。

    平安遷都と三関の変遷

    桓武天皇の時代に入ると、国家財政の緊迫や国内情勢の安定、さらに東北地方の蝦夷征伐(三十八年戦争)への注力などの影響から、延暦8年(789年)に三関は廃止(停廃)された。これに伴い、関守の兵は停廃され、土地は周辺の民に与えられた。また、794年の平安遷都に伴って交通網が再編され、北陸道への関所は愛発関から、京都に近い近江国の逢坂関(おうさかのせき)へと実質的な役割が移行していった。しかし、実体としての関所が廃止された後も、天皇の崩御や政変の際に行われる「固関」の儀式自体は形式的に存続し、平安時代を通じて国家の象徴的な防衛境界としての政治的意味を持ち続けた。

  • 慶雲

    慶雲 (けいうん)

    704年〜708年

    【概説】
    飛鳥時代末期の文武天皇および元明天皇の治世に用いられた元号。日本初の本格的な律令である大宝律令が制定された「大宝」に続き、めでたい雲である「慶雲」の出現を機に改元された。

    祥瑞思想に基づく「慶雲」への改元

    慶雲(景雲とも書く)とは、吉兆とされる美しくめでたい雲(瑞雲)のことである。大宝4年(704年)4月、西の空にこの慶雲が現れたことを受けて、文武天皇は「天が我が治世を祝福している」として同年5月に「慶雲」へと改元した。当時は、優れた統治を行う君主の時代には天が「祥瑞(しょうずい)」と呼ばれる吉兆を示すという思想(祥瑞思想)が強く信じられており、大宝律令の制定によって国家体制が整った時期の自信と誇りが、この改元に反映されている。

    律令運用の安定化と「慶雲の改革」

    慶雲年間は、大宝律令を実際の社会に定着させ、生じた矛盾を微調整していく過渡期にあたっていた。慶雲元年(704年)には、大宝2年に派遣された遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)らが帰国し、武則天の周から唐へと戻った現地の最新情勢や律令運用の実態を持ち帰った。これらを踏まえ、慶雲3年(706年)には官位制度の是正や、行き過ぎた戸籍上の偽りを是正するための税制改革などが行われた。これは歴史上「慶雲の改革」と呼ばれる。また、慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御すると、その母である元明天皇が即位し、のちの「平城京遷都」や「和同開珎」の鋳造へとつながる奈良時代の国家基盤がこの時期に形成された。

  • 大宝律令

    大宝律令

    701年

    【概説】
    701年(大宝元年)に文武天皇の命により、刑部親王や藤原不比等らによって編纂・制定された日本初の本格的な法典。刑罰を定める「律」と、行政や民法の規定である「令」が初めて揃って施行された。これにより、天皇を頂点とする中央集権的な日本の律令国家体制が完成した。

    大宝律令編纂の背景と過程

    7世紀後半、白村江の戦いでの敗戦を契機に、日本は東アジアの激動の中で国家の独立を保つため、急速な中央集権化と国家体制の整備を迫られていた。天智天皇の時代に編纂されたとされる近江令や、天武天皇が編纂を命じ持統天皇の時代に施行された飛鳥浄御原令を経て、法典整備の試みは段階的に進められてきた。しかし、飛鳥浄御原令は「令」のみで刑法にあたる「律」を伴わない未完成なものであった。

    そこで、より本格的で包括的な法典の制定を目指し、文武天皇の命によって刑部親王(おさかべしんのう)を総裁とし、藤原不比等や粟田真人ら唐の法制度に精通した官僚たちが中心となって編纂作業が進められた。こうして701年に成立したのが大宝律令である。

    「律」と「令」による国家統治の枠組み

    大宝律令は、刑罰の規定である「」(全6巻)と、行政組織や人民の生活規範、税制などを定めた「」(全11巻)から構成されている。最大のモデルは唐の永徽律令(えいきりつりょう)であったが、日本の国情に合わせた独自の改変が随所に施されている点が大きな特徴である。

    中央の行政機構としては、唐の三省六部制とは異なり、神々の祭祀を司る神祇官と、一般行政を統括する太政官からなる「二官八省制」が採用された。神祇官が太政官と同格に置かれたことは、天皇の権威の源泉を神話的・呪術的な祭祀に求めた日本独自の国家構造を如実に示している。また地方制度としては、全国を国・郡・里に分け、中央から貴族を国司として派遣し、地方の旧豪族を郡司に任命して下部組織に組み込むことで、全国的な支配網を敷いた。

    公地公民と人民支配の徹底

    大宝律令の制定は、大化の改新以来の目標であった「公地公民制」(土地と人民を国家が直接支配する体制)を具体的な法制度として定着させるものであった。人民を詳細に把握するために、6年ごとに戸籍を作成し、毎年の計帳に基づいて課役を徴収する仕組みが確立された。

    この戸籍に基づき、6歳以上の男女に対して身分に応じた田地(口分田)を支給し、死後に国へ返還させる班田収授法が法的に明文化された。そして支給された田地を基礎として、人民には租・庸・調雑徭(ぞうよう)といった重い租税・労役が課せられた。さらに、成年男子の一部を兵士として徴発する軍団の制度も整備され、国家の経済基盤と軍事基盤の両輪が律令によって強力に維持されることとなった。

    歴史的意義と東アジアにおける位置づけ

    大宝律令の完成は、日本が法に基づいて統治される律令国家として成立したことを意味する。これにより、大王(おおきみ)から「天皇」への君主号の変更や、「日本」という国号の公式な使用も法的に裏付けられたとされている。

    翌702年に派遣された遣唐使(粟田真人が執節使として赴任)は、唐の宮廷において初めて「日本」という国号と、独自に完成させた律令法典の存在を示し、東アジア世界において唐と並び立つ文明国(法治国家)として認知されることに成功した。大宝律令そのものの原文は現存していないが、のちに藤原不比等らが改修を進め757年に施行された養老律令にその内容の多くが受け継がれており、古代日本の国家運営の根幹として長きにわたり機能し続けたのである。

  • 屋久島(掖玖島)

    屋久島(掖玖島) (やくしま)

    7世紀後半

    【概説】
    九州の南方海上に位置する島。古代史においては「掖玖(やく)島」などと表記され、7世紀後半の飛鳥時代から段階的に大和朝廷の支配下に組み込まれ、律令国家の南限として位置づけられた。

    大和朝廷の南島経営と「掖玖人」の朝貢

    大和朝廷による九州南端やさらに南方の島々(南島)への関心は、7世紀半ばの飛鳥時代から本格化した。文献上の初出としては、『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)3月条に、吐噶喇(とから)の民とともに「掖玖人(やくびと)」が京にやってきたことが記されている。これらは当初、朝廷側からの主体的な統治ではなく、朝貢(貢物を奉じる外交関係)という形で始まったとされる。

    天武天皇11年(682年)には「多褹(たね:種子島)人」や「掖玖人」が朝廷に方物を献上し、位階を授けられたという記述があり、天武・持統期を通じて朝廷による南方諸島の掌握が進行した。これらの地域は、大和の「王化(天皇の支配と徳)」が及ぶ南の限界として認識され、朝廷の権威を内外に示す上で象徴的な意味を持っていた。

    律令制の拡大と「南島路」としての地政学的価値

    8世紀初頭、大宝律令の制定・施行(701年)と前後して、朝廷はこれらの地域に対する支配を実質的なものへと移行させた。大宝2年(702年)には「薩摩」や「多褹」が朝廷に反旗を翻したため軍が派遣され、制圧後の大宝2年(702年)から大宝4年(704年)頃にかけて多褹国(たねのくに)が設置された。屋久島はこの多褹国(のちに大隅国に併合)の一部として組み込まれ、正式な令制国として律令支配体制に位置づけられることとなった。

    屋久島や種子島がこの時期に急速に服属された背景には、当時の東アジア情勢が深く関わっている。新羅との関係悪化や唐の進出に伴い、従来の朝鮮半島沿岸を通る遣唐使ルート(北路)の維持が困難となった。そのため、九州から南島を経由して東シナ海を横断する「南島路(南路)」が開拓されることになり、屋久島はその航路上の重要な給水地・寄港地、および航路の目印としての地政学的価値を急速に高めたのである。