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  • 国府

    国府 (こくふ)

    7世紀後半〜

    【概説】
    律令制下において、中央から派遣された国司が政務を執る役所(国衙)が置かれた地方都市。行政のみならず、交通・経済・文化などのあらゆる面において、各国(令制国)の中心地として機能した。

    律令国家の形成と国府の成立

    大化の改新から大宝律令の制定(701年)に至る過程で、日本は天皇を中心とする中央集権的な律令国家の体制を整えた。この一環として全国は「国・郡・里」の地方行政区画に編成され、各国には中央から貴族が国司として派遣された。この国司が政務を行う役所を国衙(こくが)と呼び、その国衙を中心に形成された事実上の地方首都が国府である。

    国府の内部には、儀式や重要な政務を行う「国庁(政庁)」を中心に、実務を担当する「曹司(官衙の役所)」、税物を保管する「正倉」、国司の邸宅である「国司館」などが計画的に配置されていた。また、国府の周辺には、聖武天皇の詔によって鎮護国家の象徴として建立された国分寺・国分尼寺が配置されることが多く、地方における最大の都市景観を形成していた。

    地方における交通・経済・文化のハブ

    国府は行政上の拠点にとどまらず、交通・経済・文化の結節点としての重要性を有していた。中央の都と各国府、あるいは国府相互を結ぶために、古代の高速道路網である駅路(えきろ)が整備され、一定の間隔で「駅(うまや)」が置かれた。これにより、都からの命令の伝達や、各国からの租税(調・庸など)の京への運搬が円滑に行われた。

    また、国府には多くの官人やその家族、商工業者が居住し、その生活を支えるための市場(市)が形成された。国衙が直営する工房なども存在し、地方における最大の消費・生産の場となった。さらに、都の先進的な仏教文化や文字、技術は国府を通じて地方へと波及した。万葉歌人として名高い大伴家持が越中国府や因幡国府に赴任したように、教養豊かな都の貴族が地方に赴くことで、文化の地方伝播を促す役割も果たしたのである。

    変容と中世への展開

    平安時代中期以降、律令支配の崩壊に伴って国府の性格も変容を余儀なくされた。国司のなかでも現地に実際に赴任して実務を執る受領(ずりょう)の権限が強化されると、国府は国衙領における独自の徴税請負システムの本拠地へと変化していった。中世に入り、鎌倉幕府が設置した守護の拠点(守護所)が必ずしも国府と同位置に置かれなくなると、国府の行政的機能は徐々に低下していった。

    しかし、戦国大名の城下町や現代の県庁所在地、主要都市の多くが、かつての古代国府の所在地の周辺に位置しているケースは少なくない。また、現代に伝わる「府中(ふちゅう)」や「国府(こくふ、こう)」といった地名は、かつてそこに古代の国府が存在した歴史を今に伝える貴重な遺産である。

  • 国衙

    国衙 (こくが)

    7世紀末〜16世紀

    【概説】
    律令制下において、地方行政区分である「国」に置かれた役所群。中央から派遣された国司が、管轄する国内の行政、司法、軍事、徴税などの実務を執り行う拠点として機能した。

    国衙の構造と「国府」

    国衙は、国司が儀式や重要な政務を執り行う中心的な施設である国庁(政庁)を中心に、実務を行う複数の「曹司(ぞうし)」、租税を保管する「正倉(しょうそう)」、国司の宿舎である「館(たち)」などの役所群から構成されていた。これらの国衙が置かれた都市的な地域全体を国府(こくふ)と呼び、地方における政治、経済、交通、文化の中心地として栄えた。現代でも日本各地に「国府(こう、こくぶ)」という地名が残るのは、かつてこの場所に国衙が存在した名残である。

    平安時代の変質と在庁官人の台頭

    10世紀に入り、律令体制に基づく人身支配と班田収授法が崩壊すると、国衙の機能は大きく変容した。朝廷は、国司の最上席である受領(ずりょう)に対して、一定額の税(官物・臨時雑役)の納入を請け負わせる統治方針へと転換した。これにより国衙は、受領による一国支配と徴税のための効率的な機関へと再編されることとなった。

    この過程で、国衙の機構は「政所(まんどころ)」「公文所(くもんじょ)」「税所(さいしょ)」「田所(たどころ)」などの専門部署(国衙機構の分課)へと改められた。そして、実務を実際に担ったのは、現地の有力な開発領主(田堵)から起用された在庁官人(ざいちょうかんじん)であった。受領の多くは京都に留まって「目代(もくだい)」を派遣するようになったため(留守所)、実質的な国衙の運営はこれら在庁官人の手によって世襲・維持されるようになり、国衙は受領と在庁官人による国衙領(こくがりょう)支配の拠点としての性格を強めていった。

    中世における国衙の衰退と守護領国制への移行

    鎌倉時代に幕府が成立し、諸国に守護(しゅご)地頭(じとう)が配置されると、国衙の権限は次第に侵食されていった。当初、守護の権限は大犯三箇条などの軍事・警察権に限定され、民政や徴税といった国政は依然として国衙(国司)が掌握していた。しかし、地頭による国衙領(公領)への進出や、守護による国内支配の拡大によって、国衙の財政基盤と行政権は弱体化していく。

    室町時代に入ると、守護が国内の武士を組織化して一元的な領国支配を進める守護領国制(しゅごりょうこくせい)が形成された。これにより、国衙が持っていた行政・裁判・徴税などの諸権限は守護の拠点である「守護所」へと完全に吸収され、中世の展開とともに国衙はその実質的な機能を失い、消滅へと至った。

  • (こおり)

    7世紀半ば〜701年

    【概説】
    大化の改新から大宝律令制定(701年)まで用いられていた、古代日本の地方行政区画の単位。のちの律令制における「郡(こおり)」の前身であり、中央集権国家の形成過程において重要な役割を果たした制度。

    大化の改新と「評制」の展開

    大化の改新(645年)以降、推し進められた公地公民制の導入にともない、大和政権は地方支配の再編に着手した。その過程で、従来の国造(くにのみやつこ)の支配領域を再編・分割して設置された行政単位が「評(こおり)」である。評の長官には、旧国造をはじめとする有力な地方豪族が「評督(ひょうとく)」などとして任命された。彼らは部民の廃止や臨時の戸籍作成、税の徴収などを担い、これによって地方豪族は、独立した首長から中央政府に仕える地方官僚へと組み込まれていくこととなった。

    「郡評論争」と木簡の発見

    古代の地方制度をめぐっては、長年にわたり「郡評論争」と呼ばれる激しい学術論争が存在した。『日本書紀』の大化の改新の詔(646年)には「郡」の文字が使われていたため、改新直後から郡が置かれたとする「郡置説」が通説であった。しかし、文献批判の観点から、大宝律令以前は「評」と書かれ、のちに『日本書紀』の編纂時に「郡」へ書き改められたとする「評置説」も強く主張されていた。この論争は、1967年の宮城県多賀城跡や、1999年の藤原宮跡などから「評」と記された大量の木簡が発見されたことで決着した。大宝律令(701年)以前の実在の行政単位は「評」であり、律令制定を機に「郡」へと改称・改編されたことが考古学的に実証されたのである。

    地方支配の変遷と「評」の歴史的意義

    「評」から「郡」への移行は、単なる名称の変更にとどまらず、地方支配がより安定的かつ中央集権的な段階へ到達したことを意味している。評の段階では、未だ在地首長の旧来の部族的結合や世襲的特権が強く残されていた。しかし、大宝律令の制定により行政区画としての「郡」が全国的に再整備され、その長である郡司には、より画一的な中央の統制が及ぶようになった。「評」は、氏姓制度から律令国家へと移行する過渡期において、地方社会を段階的に国家統治の枠組みへと統合するための極めて重要なステップであったといえる。

  • 遠の朝廷

    遠の朝廷 (とおのみかど)

    7世紀後半〜11世紀頃

    【概説】
    古代日本において、九州の筑前国(現・福岡県)に置かれた地方行政機関「大宰府」の異名。西海道(九州一円)の統治のみならず、対外外交や国防において中央政府(朝廷)から委任された広範な独立権限を行使した、まさに「遠くにある朝廷」としての性格を示す言葉である。

    「遠の朝廷」の誕生と東アジア情勢

    「遠の朝廷(とおのみかど)」という言葉は、万葉集などの文学作品にも見られる大宰府の雅称である。この機関が事実上の「第二の都」として機能し始めた背景には、7世紀半ばの東アジアにおける国際緊張があった。663年の白村江の戦いで倭(日本)が唐・新羅の連合軍に大敗すると、天智天皇は対馬や壱岐、筑紫に防人を配置し、水城や大野城などの朝鮮式山城を築いて防衛線を敷いた。この防衛体制の中核、および大陸からの使者を迎える外交の最前線として整備されたのが大宰府であり、これがのちに「遠の朝廷」と呼ばれる基盤となった。

    当初は「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」などと呼ばれていたが、大宝律令(701年)の制定にともなう律令体制の確立により、地方行政組織の枠組みを超えた特別官司である大宰府へと昇格し、名実ともに「遠の朝廷」としての陣容を整えることとなった。

    外交・軍事における独立した権限

    大宰府が「遠の朝廷」と称された最大の理由は、通常の地方官衙(国衙など)とは比較にならないほどの強大な権限を有していた点にある。行政面では九州諸国(西海道)を統轄し、管内の国司に対する監督権や人事権の一部を行使した。しかし、それ以上に重要だったのが外交と軍事における自立性である。

    対外関係において、大宰府は外国の使節(新羅使や渤海使など)を応接する窓口であり、鴻臚館(筑紫館)を管理して貿易の管理・統制を行った。中央の朝廷の判断を仰ぐ前に、大宰府独自の判断で交渉や審査を行うケースも多く、事実上の外務省の役割を果たしていた。軍事面でも、防人や兵士の徴発・配置、要衝の警備を直接指揮する権限を持ち、西日本一帯の最高軍事司令部としての機能を持っていた。

    「遠の朝廷」の変容と終焉

    律令体制の全盛期において絶大な権力を誇った「遠の朝廷」も、時代の進展とともにその性格を変化させていった。平安時代中期以降、中央集権的な律令制が弛緩し、受領国司による徴税請負制へと移行すると、大宰府の権能も徐々に変質していった。しかし、11世紀前半の刀伊の入寇(1019年)に際しては、大宰権帥であった藤原隆家の主導のもと、中央の命令を待たずに現地の武士団を動員して撃退に成功するなど、依然として独自の軍事指揮権と高い自立性を発揮した。

    その後、日宋貿易の展開とともに太宰府のあった地域は経済的要衝としての性格を強めるが、鎌倉時代の幕府開設や元寇による鎮西探題の設置などを経て、政治・軍事的な中枢としての「遠の朝廷」の機能は終焉を迎え、歴史の表舞台から徐々に退いていくこととなった。

  • 大宰府

    大宰府 (だざいふ)

    7世紀後半〜12世紀頃

    【概説】
    九州(西海道)全域を統括し、外交や国防の最前線として強大な権限を持っていた特別地方行政機関。飛鳥時代後期に整備され、平城京や平安京から遠く離れた地で朝廷を代行する機関として「遠の朝廷(とおのみかど)」とも称された。古代国家の防衛戦略のみならず、東アジア世界との交流や貿易の要衝として極めて重要な役割を果たした。

    大宰府の成立と国防の最前線

    大宰府が歴史の表舞台に登場する直接的な契機となったのは、飛鳥時代における白村江の戦い(663年)での敗戦である。百済復興を支援した日本(倭国)軍は唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、日本列島への直接侵攻の危機に直面した。これを受けた天智天皇は、国防体制の抜本的な強化に乗り出すことになる。

    朝廷は九州北部の防衛拠点として、博多湾からの進入路を塞ぐ巨大な土塁である水城(みずき)を築き、背後の山々には大野城や基肄城(きいじょう)といった古代山城(朝鮮式山城)を築造した。これらの堅固な防衛網の中核として整備されたのが大宰府であり、単なる地方役所ではなく、国家存亡の危機を背景とした強力な軍事司令部として産声を上げたのである。

    「遠の朝廷」としての強大な権限

    律令制が整うにつれて、大宰府の機能は軍事のみならず行政・司法など多岐にわたるようになった。大宰府は西海道(現在の九州全域および周辺島嶼にあたる9国3島)の国司を直接指揮・監督する権限を持ち、地方機関でありながら中央政府である太政官に準ずる機構を備えていた。このため、大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」や「西の都」と呼ばれ、特異な地位を占めた。

    大宰府の長官は帥(そち)と呼ばれたが、平安時代以降は皇族(親王)が任命される名誉職(帥親王)となることが多く、実際に現地で政務を執る最高責任者は次官である権帥(ごんのそち)や大弐(だいに)であった。彼らは西日本の広大な領域において、徴税から軍事動員、さらには祭祀に至るまでの強大な権限を行使した。

    東アジア外交・貿易の窓口

    国防の要衝であった大宰府は、同時に東アジア諸国に対する「国家の窓口」でもあった。唐や新羅、後には渤海からの使節が来日した際、彼らはまず大宰府の管轄下にある迎賓施設・鴻臚館(こうろかん)に滞在した。大宰府は彼らの接待や外交使節としての真偽の確認を行い、中央政府の指示を仰いだ。また、遣唐使などの日本の使節団も、ここを最終の寄港地として航海の安全を祈願し、東シナ海へと船出していった。

    平安時代に入り遣唐使が廃止(894年)されると、大宰府の役割は公的な外交から、宋(中国)や高麗の商人との民間交易の管理へと比重を移していく。大宰府は博多津(現在の福岡市)に寄港する外国商船の積荷を検査し、朝廷の優先購入権(唐物使)を行使するなど、経済的にも莫大な利益を生み出す要衝となっていった。

    政争の敗者と配流の地

    中央から遠く離れているという地理的条件から、大宰府はしばしば政争に敗れた貴族の左遷(配流)の地としても機能した。最も有名な例が、藤原時平の陰謀によって大宰員外帥(だざいのいんがいそち)に左遷された菅原道真(901年)である。道真は失意のうちにこの地で没し、その怨霊を鎮めるために建立されたのが太宰府天満宮の起源となった。

    このほかにも、藤原仲麻呂の乱に連座した者や、源高明(安和の変)など、多くの高級官僚が事実上の流罪として大宰府へ送られた。大宰府への赴任は、自ら希望するエリート官僚の出世コースであると同時に、中央政界からの追放を意味する過酷な人事という二面性を持っていたのである。

    大宰府の衰退とその後

    平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士の台頭とともに大宰府の実質的な権限は徐々に失われていった。日宋貿易による莫大な富に目をつけた平氏政権が博多を掌握し、鎌倉幕府が成立すると、九州の統治と防衛は鎮西奉行や鎮西探題といった武家政権の機関へと移行していった。

    さらに室町時代には九州探題が設置され、古代律令制における「遠の朝廷」としての実体的な大宰府の組織機能は完全に形骸化した。しかし、その文化的・歴史的遺産は、天満宮の信仰や周辺の史跡(現在の福岡県太宰府市)として、後世に色濃く受け継がれている。なお、歴史学においては古代の行政機関を「大宰府」、中世以降の地名や神社名を「太宰府」と表記して区別することが一般的である。

  • 西海道

    西海道 (さいかいどう)

    7世紀後半~

    【概説】
    古代の律令制における広域地方行政区分である「五畿七道」の一つ。九州地方の諸国と壱岐・対馬などの周辺島嶼から構成され、中央の直接支配ではなく「大宰府」を介して統括された、軍事・外交上の最重要地域である。

    五畿七道における西海道の成立と構成

    飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令国家の地方支配体制において、全国は五畿(畿内)と七つの「道」(広域行政区分)に再編された。西海道はその七道の一つであり、現在の九州地方全域と周辺の島嶼部を指す。具体的には、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9国と、壱岐・対馬の2島から構成されていた。一時期は南方の種子島・屋久島付近に多禰国(たねのくに)が置かれたが、8世紀前半に大隅国に編入されている。西海道は、中央政府が直轄的に国司を監察した他の「道」とは異なり、地域全体を一括して統括する強力な出先機関が存在した点で極めて特異な存在であった。

    大宰府による一元支配と「遠の朝廷」の役割

    西海道の最大の特徴は、管内の諸国・諸島が大宰府(だざいふ)の管轄下に置かれ、一元的な支配を受けていたことである。大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれ、西海道の行政・司法のみならず、軍事や外交の全権を委ねられていた。このような特殊な体制が敷かれた背景には、東アジア情勢の緊迫化がある。663年の白村江の戦いでの大敗後、大和政権は唐や新羅からの侵攻に備えるため、九州地方の防衛体制を急ピッチで整えた。西海道の要衝には東国から徴発された防人(さきもり)や(とぶひ)が配備され、筑前には水城(みずき)や大野城などの朝鮮式山城が築かれた。このように、西海道は国家の「防壁」としての役割を強く担わされていた。

    対外窓口としての歴史的意義と展開

    軍事的な最前線である一方で、西海道は大陸の先進的な文化や物資を受け入れる外交・交易の窓口としての役割も果たした。遣唐使や遣新羅使などの公式使節は西海道を経て大陸へ渡り、大陸からの使節を迎えるための迎賓館・交易施設として筑前に鴻臚館(こうろかん)が設置された。平安時代以降、律令制が徐々に弛緩していくなかでも、西海道は大宰府を中心とした独自の政治・経済圏を維持し、のちの日宋貿易や日元貿易などの対外交流においても、歴史的に重要な舞台であり続けた。

  • 南海道

    南海道 (なんかいどう)

    7世紀後半〜

    【概説】
    古代日本における広域地方行政区分である五畿七道の一つ。紀伊半島から海路を経て四国地方へと至る交通路、およびその沿線に位置する紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の6カ国の総称である。律令体制下における中央と地方を結ぶ大動脈として、行政・交通の両面で重要な役割を果たした。

    古代律令制における「五畿七道」と南海道の構成

    飛鳥時代の天武・持統朝から奈良時代の大宝律令制定(701年)にかけて、日本は中央集権的な律令国家体制の構築を進めた。その際、全国の行政区分および地方への交通網として整備されたのが五畿七道(ごきしちどう)の制である。南海道はその「七道」の一角を占める区分であった。

    南海道が管轄したのは、畿内に隣接する紀伊国(和歌山県・三重県南部)、淡路島に置かれた淡路国(兵庫県)、そして四国に位置する阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)、土佐国(高知県)の計6カ国である。これらの諸国には中央から国司が派遣され、中央政府への徴税や統治を行う行政単位として機能した。

    「駅船」が配備された海路主体の交通網

    南海道の最大の特色は、東山道や北陸道などの他の道が陸路主体であったのに対し、海路を主たる移動経路として含んでいた点である。都(畿内)から紀伊半島西岸の由良港(現在の和歌山県由良町)などへ南下したのち、船で淡路国を経由し、四国の阿波や讃岐へと渡るルートが公式の官道(駅路・伝路)とされた。

    律令制下の交通制度である駅制(えきせい)においては、陸上の移動のための「駅馬(やくば)」だけでなく、海上移動のための「駅船(えきせん)」が南海道の要所に配備された。これは紀伊水道や明石海峡といった海上交通の難所を安全に往来するためのもので、南海道独自のインフラであった。また、このルートは瀬戸内海の物資輸送とも深く結びついており、難波津や大輪田泊などの港湾と連動して、西日本から都へ税(調や庸など)を運ぶ重要ルートとしても機能した。

    軍事・政治的要衝としての歴史的変遷

    南海道は、都に近接する紀伊から西国へとつながる地政学的な位置にあり、歴史を通じてしばしば軍事・政治の舞台となった。平安時代中期に発生した承平・天慶の乱においては、藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、南海道の伊予国の国府を襲撃するなど、一帯が激しい戦乱に巻き込まれた。

    平安時代後期から中世にかけては、紀伊国の高野山熊野三山への信仰(高野参詣・熊野詣)が歴代の上皇や貴族、さらには庶民の間で爆発的に流行し、南海道の一部は信仰の道としても栄えた。戦国時代から近世にかけても、瀬戸内海から大坂湾をにらむ軍事・交易の要衝として、紀伊国(後の徳川御三家・紀州藩)や阿波国(蜂須賀氏・徳島藩)などは、幕藩体制下においても極めて重視される地域であり続けた。

  • 山陽道

    山陽道

    7世紀後半~

    【概説】
    古代の律令国家によって整備された、本州西部の瀬戸内海側(周防・長門・石見などを除く瀬戸内沿岸諸国)を通る行政区分および幹線道路。五畿七道の中で唯一、最重要路線である「大路(たいろ)」に指定され、都と九州の大宰府を結ぶ国家の基幹道路として機能した。

    古代律令国家における唯一の「大路」と駅制

    飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家が形成されると、都を中心に全国を結ぶ交通網「七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)」が整備された。この七道は単なる道路ではなく、行政区画の名称でもあった。各道路には重要度に応じて「大路」「中路」「小路」の格付けがなされたが、その中で山陽道だけが最高格の「大路」に指定された。

    大路である山陽道には、約16キロメートル(30里)ごとに駅家(うまや)が置かれ、そこには他道よりも格段に多い20頭の駅馬(えきば)が常備された。これにより、中央からの緊急の使者(使符を持った官人)が駅馬を乗り継ぎ、迅速に西国へと情報や命令を伝達できる体制が整えられていた。

    外交・軍事の枢軸と「遠の朝廷」大宰府への大動脈

    山陽道が「大路」として最重視された最大の理由は、大陸外交の窓口であり、国防の要衝でもあった九州の大宰府(遠の朝廷)へと直接つながる唯一の陸路だったからである。当時の日本は、唐や新羅などの東アジア情勢に対応するため、大宰府との迅速な意思疎通が不可欠であった。また、朝鮮半島や中国大陸からの使節(遣唐使の帰国使や新羅使など)が上洛する際にもこの山陽道が使用され、国家の威信を示すための「公式ルート」としても美しく整備されていた。

    さらに、地理的に瀬戸内海の水運と密接に並行していたことも特徴である。基本的には陸路として整備されながらも、瀬戸内海の穏やかな海路と役割を補完し合うことで、物資の輸送や防人の移動、軍事行動において極めて高い効率性を発揮した。

    律令制崩壊後の変遷と「西国街道」への継承

    平安時代中期以降、律令体制が弛緩・崩壊に向かうと、国家管理による駅制は衰退していった。しかし、山陽道自体のルートは交通の要衝として維持され続けた。中世の武士の時代においても、京都から鎌倉、さらには西国へと向かう軍勢の移動路として重要視された。

    近世の江戸時代になると、幕府によって主要街道の再編が行われ、山陽道は「西国街道(さいごくかいどう)」とも呼ばれるようになり、五街道(東海道など)に準ずる重要な脇往還として、多くの大名の参勤交代や庶民、旅人の往来で再び大きな繁栄を見せることとなった。このように、古代に構築された交通インフラとしての山陽道は、時代を超えて日本の東西を結ぶ大動脈であり続けたのである。

  • 当色婚

    当色婚 (とうしきこん)

    701年〜

    【概説】
    律令制において、良民と賤民のあいだの通婚を禁止し、同一の身分階層内でのみ婚姻を認める法規定。大宝律令や養老律令の「戸令」に定められ、厳格な身分秩序を維持するための基盤となった。国家による人民支配と税収確保を目的とした、古代の身分固定化政策の一つである。

    律令国家が定めた厳格な「良賤」区分と婚姻の制限

    日本の律令制下においては、全人民が法的に良民(りょうみん)賤民(せんみん)の二つの身分に大別されていた。これを「良賤の法」と呼ぶ。当色婚(とうしきこん)の「色」とは「身分」や「種類」を意味し、同じ身分に属する者同士の婚姻を義務づけた規定である。大宝律令や養老律令の「戸令(こりょう)」において、良民は良民と、賤民は賤民と同じ身分同士でのみ婚姻することが定められた。これは、身分間の境界を明確に保ち、社会階層の混濁を防ぐための基本的な法秩序であった。

    「五色の賤」と身分固定化の意図

    特に賤民は「五色の賤(ごしきのせん)」と呼ばれる5つのグループ(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)に細分化されており、原則としてそれぞれのカテゴリー内での通婚が求められた。このような制限が設けられた背景には、古代国家による税収(租庸調)および労働力の確保という切実な要請があった。良民は国家に対して納税や兵役の義務を負う直接の支配対象であり、国家の財政基盤であった。これに対し、賤民は課税を免除される代わりに、政府や貴族・豪族の使役労働力、あるいは私有財産として位置づけられていた。もし良民と賤民が自由に婚姻し、その境界が曖昧になれば、国家の課税対象である良民の人口動態が不安定になり、財政維持に重大な支障をきたす恐れがあったため、当色婚によって身分の固定化が図られたのである。

    良賤違犯への対処と制度の解体

    当色婚の規定に違反して良民と賤民が不法に通婚した場合、そこから生まれた子供の身分については「一子賤なればすなわち賤とす」という原則が適用され、子はより低い身分である賤民とされた。このルールは良民に対する強い警告として機能したが、奈良時代後期から平安時代初期にかけて、重税に苦しむ良民が意図的に賤民と通婚して課税から逃れようとするケースや、良民の逃亡・浮浪が相次ぎ、戸籍制度そのものが動揺し始めた。こうした社会の変化に伴い、政府は良民の減少を防ぐために「母が良民であれば子は良民とする」などの妥協的措置を余余儀なくされていく。結果として、当色婚の規定は有名無実化し、平安時代中期には当色婚の前提であった公私奴婢の制度そのものが実質的に消滅し、古代の良賤制度は解体へと向かうこととなった。

  • 五色の賤

    五色の賤 (ごしきのせん)

    701年

    【概説】
    律令制下の日本における、法的に「賤民(せんみん)」と位置づけられた5つの階層の総称。天皇や国家に帰属する公有の「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「公奴婢(くぬひ)」と、貴族や豪族などの私有に属する「家人(けにん)」「私奴婢(しぬひ)」に分類される。戸籍に基づく一元的な人民支配を確立するため、良民(一般平民)との厳しい身分差別の壁が設けられた。

    律令法が規定した5つの賤民階層とその格差

    大宝律令(701年)の制定によって整備された良賤(りょうせん)制度において、全人民は「良民」と「賤民」の2つに大別された。そのうちの賤民に属する5つの身分が「五色の賤」である。

    五色の賤は、その従属先によって「公有」と「私有」に分かれ、それぞれ法的な権利や待遇に差が設けられていた。公有の賤民のうち、陵戸は諸陵司(朝廷の陵墓を管理する役所)に属して天皇・皇族の墓の守衛にあたった。官戸は官司(役所)に属して雑役に従事した。また、公奴婢は官府に直接所有されて様々な使役に従事した。一方、私有の賤民のうち、家人は貴族や豪族などの豪家に仕えて雑務に従事し、私奴婢は個人に所有されて労働を強制された。これらは社会的に賤視されたが、特に公奴婢と私奴婢は最も地位が低く、売買や相続の対象とされるなど、人間ではなく「財産(資財)」として扱われた。

    また、これら5つの身分の間には待遇の差も存在した。陵戸・官戸・家人の3者は自ら「戸」を構えることが許され、良民と同額の口分田を支給されたが、公奴婢・私奴婢は「戸」の形成が認められず、口分田の支給額も良民の3分の1に留められていた。

    良賤支配の論理と国家の思惑

    律令国家がこのような身分制度を設けた最大の目的は、社会的な秩序の維持と、国家財政の基盤である良民(課口)の確保にあった。良民からは租・庸・調や兵役などの重い負担が徴収されたが、賤民の多くはこれらの課税を免除されていた。もし良民が没落して賤民に流入すれば、国家の税収が激減することになるため、朝廷は両者の区分を厳格に保とうとした。

    そのための代表的な法規定が「良賤不婚の法(りょうせんふこんのほう)」である。これは原則として良民と賤民の婚姻を禁止するものであった。また、もし不法に良民と賤民の間に子供が生まれた場合、その子供は身分の低い方の籍に編入されるという「賤者を生めば賤とす」の原則が貫かれた。このルールにより、一度賤民の血が混ざればその子孫も自動的に賤民となり、国家は良民への復帰を厳しく制限して、身分の固定化を図った。

    律令制の変容と「五色の賤」の消滅

    奈良時代後期から平安時代初期にかけて、律令体制そのものの形骸化に伴い、良賤制度も行き詰まりを見せるようになった。過酷な重税から逃れるため、多くの良民が浮浪や逃亡を繰り返し、中には有力な貴族のもとで「家人」や「私奴婢」となることで課税を免れようとする者が急増した。これは国家にとっては税収の減少、貴族にとっては私的財産の拡大を意味し、律令国家の根幹を揺るがす事態となった。

    事態を重く見た朝廷は、789年(延暦8年)に良賤間の婚姻から生まれた子供を良民とする法改正を行い、「賤者を生めば賤とす」の原則を事実上廃止した。これにより賤民の人口増加は抑えられ、むしろ良民の確保へと舵が切られることとなった。さらに、平安時代初頭の9世紀初頭には、国家管理の負担が大きくなっていた公奴婢の多くが解放されて良民に編入された。こうして、10世紀初頭までに「五色の賤」を支えた戸籍制度(班田収授の法)が完全に崩壊すると、五色の賤という法的な身分区分は実質的に消滅し、中世的な新しい身分秩序へと移行していくこととなった。