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  • 弾正台(飛鳥時代)

    弾正台 (だんじょうだい)

    701年〜1871年

    【概説】
    律令制において、官人の不正を監視・摘発し、社会の風紀を取り締まった監察機関。「二官八省」の行政組織から独立した「一台」として、天皇直属の強い権限を持った官司である。

    「二官八省」と並び立つ「一台」としての独立性

    大宝律令において整備された日本の律令官制は、神祇官・太政官の「二官」と、その下部組織である「八省」を基幹とした。しかし、弾正台(だんじょうだい)はこの枠組みから独立した「一台」として設置された。その主な任務は、中央および地方の官人の非違(違法行為や不正)を糾弾し、都の風紀を維持することであった。行政を司る太政官から独立した地位を与えられることで、官人たちの不正に対して公正かつ厳格な監察を行うことが可能となったのである。

    飛鳥時代における成立背景と「唐」の制度の受容

    弾正台が法制的に確立したのは701年の大宝律令であるが、その源流は飛鳥時代後期の天武・持統天皇期(7世紀後半)に遡る。急速な中央集権化が進む中、官僚機構の肥大化に伴う役人の腐敗や、元豪族たちの規律の緩みを統制することが急務となった。天武天皇期に派遣された巡察使や、689年の飛鳥浄御原令における制度的模索を経て、監察機関としての組織化が進んだ。これは、唐の監察機関である「御史台(ぎょしだい)」を手本としつつも、日本の国情に合わせて「一台」として独立させたもので、天皇を頂点とする専制的な支配体制を維持するための不可欠な装置であった。

    平安期における機能の変遷と「検非違使」への移行

    奈良時代を通じて弾正台は官人の監視に一定の役割を果たしたが、平安時代に入ると徐々にその実権を失っていく。9世紀前半、嵯峨天皇の時代に設置された検非違使(けびいし)は、当初は京都の治安維持を目的とする臨時の職(令外官)であったが、次第に司法・警察の権限を一手に行使する強力な組織へと成長した。その結果、弾正台が持っていた警察的・監察的な実権は検非違使に奪われ、弾正台は形骸化した名誉職としての組織へと変化していった。その後、明治維新期の1869年に一時的に近代的な司法監察機関として復活したものの、1871年に司法省へと統合されてその歴史を終えた。

  • 一台

    一台 (いちだい)

    701年

    【概説】
    大宝律令によって整備された中央官制において、官人の不正や風紀の乱れを厳しく監視・糾弾した独立監察機関「弾正台(だんじょうだい)」の別称。行政組織である太政官から独立した地位を保ち、官僚機構の健全性を維持する役割を担った存在である。

    「二官八省一台」における特異な位置づけ

    飛鳥時代の701年に制定された大宝律令により、日本の古代国家体制は唐の律令制を手本として本格的に整備された。中央官制においては、祭祀を司る神祇官と政務を司る太政官の「二官」、太政官の下に置かれた「八省」が行政の中核を成したが、これらとは系統を異にする独立した機関として設置されたのが弾正台(一台)である。このことから、中央官制はしばしば「二官八省一台」と称される。一般の行政ラインから切り離された独立性を与えられたのは、最高幹部を含むすべての官人の非行や違法行為に対して、忖度のない厳格な監視と弾劾を行うためであった。

    「一台」の職掌と唐制の影響

    「一台」という名称は、唐の監察機関である「御史台」の別名(唐名)に由来する。日本の一台(弾正台)も同様の役割を担い、長官である弾正尹(だんじょうのかみ)以下、所属する官人たちが平城京(のちの平安京)内や各官庁を巡察し、不法行為や風紀の乱れを厳しく取り締まった。一台の持つ糾弾権は極めて強力であり、官人の罪状を太政官の審議を経ることなく、天皇に直接奏上(直奏)することが認められていた。これは、天皇の直属機関として官僚の暴走や汚職を防ぎ、天皇専制支配を支えるための重要な装置であったことを示している。

    検非違使の台頭と「一台」の形骸化

    奈良時代を通じて官人の風紀維持に貢献した一台であったが、平安時代に入ると社会の変化に伴ってその機能は大きく変質していく。平安初期、嵯峨天皇によって弘仁年間に検非違使(けびいし)が設置されると、それまで弾正台や衛府、刑部省などが分掌していた警察・司法・監察の権限が徐々に検非違使へと一元化されていった。これにより、治安維持の実権を奪われた一台は次第に実質的な職務を失い、形骸化していった。しかし、官制上の格の高さは維持されたため、平安後期以降も弾正尹などのポストは公家たちの家格を示す名誉職(官職の身分象徴)として残り続けた。

  • 宮内省(飛鳥時代)

    宮内省 (くないしょう)

    701年〜

    【概説】
    大宝律令の制定にともない設置された、二官八省制における八省の一つ。天皇の衣食住や宮中での日常生活の支援、皇室の財産管理など、天皇および皇室の私的な家政全般を統括した行政機関。

    律令体制における宮内省の位置づけ

    飛鳥時代後期から奈良時代にかけて、日本は唐の律令制度を範にとった中央集権的な国家体制(律令制)を構築した。701年の大宝律令の制定によって「二官八省」の官僚組織が完成すると、宮内省はその八省の一つとして位置づけられた。宮内省は、国政の最高機関である太政官の傘下にあり、右弁官が管轄する四省(兵部省・刑部省・治部省・宮内省)の一部を構成した。国家の一般的な政務を司る他の七省とは異なり、宮内省は天皇の私的生活の保障と、宮廷の維持運営に特化した極めて特殊な役割を担っていた。

    天皇の家政を支えた多様な下部組織

    宮内省の長官である宮内卿(くないのかみ)の下には、多岐にわたる専門業務を処理するために多くの下部組織(職・寮・司)が置かれた。代表的なものとして、宮中での大規模な饗宴や天皇の食事を司る大膳職(だいぜんしき)、皇室の調度品や衣類の管理、宮中の掃除を行う掃部司(かもりづかさ・のちの掃部寮)、皇室の私的な財宝や進上物を管理する内蔵寮(くらりょう)、宮廷の水や氷を調達する主水司(もんどつかさ)などが挙げられる。これらは天皇の身辺に直結する機関であり、宮内省が宮廷の物質的基盤をすべて支えていたことを示している。

    「公」と「私」の境界線と宮内省の歴史的意義

    古代の日本において、国家の公的な職務と天皇の私的な用務は明確に分離されておらず、天皇の生活を維持することはそのまま国家の最高公務とみなされていた。宮内省という国家機関が皇室の家政を担当したことは、その象徴と言える。しかし、平安時代に入ると、天皇の秘書的役割を果たす蔵人所(くろうどどころ)が設置され、天皇の私的な権力が蔵人所に集中するようになると、宮内省の本来の機能は次第に形骸化していった。それでもなお、宮廷の儀式や先例を維持する官司としての宮内省の組織は、中世・近世を通じて存続し、近代の明治政府における宮内省へと引き継がれることとなった。

  • 大蔵省(飛鳥時代)

    大蔵省 (おおくらしょう)

    701年

    【概説】
    大宝律令の制定によって整備された二官八省制において、太政官に属した八省の一つ。諸国から貢納された調や庸などの税の保管・出納や、貨幣および度量衡の管理などを統括した財政官庁。

    大宝律令と「三蔵」の再編

    大蔵省の起源は、律令制以前の大和政権期に設置されていた「三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)」にある。特に官物を保管した大蔵(おおくら)の管理を担っていた渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)などの伝統的な役割が、701年の大宝律令制定に伴う官制改革によって、体系的な中央官庁へと再編された。こうして成立した大蔵省は、天皇個人の財産を扱う内蔵寮(宮内省に属する)とは明確に区別され、律令国家全体の公的財政を管理する最高機関として位置づけられた。

    調・庸の管理と度量衡の統一

    大蔵省の主要な任務は、地方から中央へ送られる調(ちょう)庸(よう)をはじめとする貢納物の出納と管理である。これらは繊維製品や特産品など多岐にわたり、当時の国家財政の主軸をなしていた。また、大蔵省は貨幣の鋳造・管理に加え、全国の度量衡(長さ・体積・重さの基準)を統一・維持する権限も有していた。度量衡の公定は、徴税を公平かつ正確に行うための大前提であり、律令国家による中央集権的な経済統制を支える重要な基礎となった。

    民部省との役割分担

    律令制下の財政官庁には、大蔵省のほかに民部省(みんぶしょう)が存在した。この両省は密接に関係しながらも明確に役割が分担されていた。民部省が戸籍・計帳の管理や租税の徴収・企画といった「民政および租税の上流工程」を担ったのに対し、大蔵省は実際に納められた財物の実物管理や出納、各種の製作物の管理といった「財務の実務および下流工程」を専門とした。このような組織的分業体制により、飛鳥時代から奈良時代にかけての中央集権的な国家運営が維持されていたのである。

  • 刑部省(飛鳥時代)

    刑部省 (ぎょうぶしょう)

    701年

    【概説】
    大宝律令の制定にともない整備された二官八省制において、司法全般を管轄した中央官庁。律令法に基づく裁判の審理や刑罰の決定、およびそれらに付随する行刑や監獄の管理などを担当した。

    律令国家における司法の中枢

    飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、唐の律令制度を模範とした中央集権的な国家体制の構築が進められた。大宝律令(701年)の制定により、中央官制として「二官八省」が整備され、その八省の一つとして設置されたのが刑部省である。刑部省は、天皇や太政官の統制のもと、国家の法秩序を維持するための司法・警察機能の実務を担った。

    当時の日本は、天皇を中心とする「法による統治(律令政治)」を目指しており、刑部省はその根幹をなす機関であった。それまでの氏姓制度のもとでの私的な制裁や慣習法による裁判を排し、成文化された「律(刑法)」に基づき、国家が統一的な基準で裁判や刑罰を行う象徴的な存在であったと言える。

    刑部省の具体的な職掌と組織

    刑部省の主な任務は、重大な犯罪に対する裁判の審理、判決の確定、そして刑罰の執行管理であった。律令法で定められた五刑(笞・杖・徒・流・死)のうち、特に重い刑罰(徒・流・死)の判定や、その前提となる法解釈の審査(「法判」)を行った。また、過失や不当な裁判に対する抗告(再審理)の受付も担当した。

    組織の長である刑部卿(ぎょうぶきょう)のもとには、実務を指揮する大輔・少輔などの四等官が置かれ、さらに法解釈や裁判の実務を専門とする判事(大判事・中判事・少判事など)が配属された。これにより、恣意的な審判を防ぎ、客観的な法適用が図られた。さらに、刑部省の被官(下部組織)として、都の治安維持や監獄の管理、囚人の監視を行う囚獄司(しゅごくし)や、贓物(盗品)の管理などを行う都治部司などが置かれ、司法から行刑にいたる一貫したシステムが構築されていた。

    治安維持組織の変遷と同時代的意義

    飛鳥時代に端を発した律令制は、平安時代に入ると貴族社会の変容や社会情勢の変化に伴い、次第に形骸化していった。司法面においては、平安初期に嵯峨天皇によって設置された令外官である検非違使(けびいし)が急速に権限を拡大した。検非違使は本来、京都の治安維持を目的とする警察組織であったが、次第に裁判や刑の執行といった司法権全般をも掌握するようになった。

    この検非違使の台頭により、律令に規定された本来の司法システムである刑部省や弾正台、衛門府などの権能は著しく縮小し、刑部省は名目的な存在へと変質していった。しかし、飛鳥時代において刑部省が創設され、法に基づく裁判制度が一時的にせよ確立されたことは、日本が古代の「氏族国家」から「法治国家」へと脱皮を遂げる上での画期的な一歩であった。

  • 兵部省(飛鳥時代)

    兵部省 (ひょうぶしょう)

    701年~

    【概説】
    律令制における二官八省の一つで、軍事全般を統括した中央官庁。武官の人事、諸国の軍団の管理、兵士の徴発、兵器や軍馬の管理などを掌った。天武天皇期の「兵政官」を前身とし、大宝律令の制定によって天皇直属の軍事行政機関として確立した。

    兵部省の成立背景と「兵政官」からの展開

    飛鳥時代後半、東アジアの国際緊張や壬申の乱という内乱を経て、強力な中央集権国家の建設が急務となった。天智天皇期の白村江の戦いでの敗戦は、従来の豪族が兵力を私有する体制から、天皇が軍事権を一元的に掌握する体制への移行を促した。こうした中、天武天皇期に軍事を担当する官司として兵政官(ひょうせいかん/つわもののつかさ)が設置された。これが持統天皇期を経て、701年の大宝律令の完成により、太政官に属する八省の一つである「兵部省」へと再編された。唐の「兵部」を手本としつつ、日本独自の官制として整備されたものである。

    兵部省の職掌と軍団制の統制

    兵部省の任務は、国家の軍事行政全般に及んだ。具体的には、武官の名簿管理や人事評価、諸国から徴発される兵士の配備、そして兵器や軍馬の管理などである。当時の日本の軍事制度は、戸籍に基づいて正丁(成人男性)の3分の1を兵士として徴発する皆兵制(軍団制)をとっていた。兵部省は、これらの兵士が所属する諸国の「軍団」を管理し、さらに都を警備する「衛士(えじ)」や、九州の防備にあたる「防人(さきもり)」の動員・配置を統括した。このように、兵部省は天皇の軍事大権を実質的に支える重要な官庁として機能した。

    軍事体制の変容と兵部省の形骸化

    奈良時代から平安時代初期にかけて、過酷な兵役や防人役は農民の負担となり、浮浪や偽籍による兵役逃れが相次いだ。これにより軍団制は急速に機能不全に陥り、792年には辺境を除き諸国の軍団が廃止され、郡司の子弟ら少数精鋭の志願兵による健児(こんでい)制へと移行した。国家が一般農民を動員する体制を放棄したことで、兵部省が管理する軍事動員力は著しく低下した。さらに、10世紀以降に武士団が台頭し、私的な軍事力が治安維持を担うようになると、兵部省の軍事行政機関としての実質的な権能は失われ、朝廷の儀式や武官の叙位を司るだけの名目的な官職(形骸化した「官職の家職化」)へと変質していった。

  • 蔭位の制

    蔭位の制 (おんいのせい)

    701年

    【概説】
    五位以上の貴族の子や孫に対し、父祖の位階に応じて、出仕の当初から一定以上の位階を与える特権制度。律令制下における身分秩序を固定化し、特定の家系が官僚機構を世襲する基盤となった。

    制度の仕組みと貴族への優遇

    大宝律令(701年)や養老律令において整備された蔭位の制は、律令制における「官」と「位」の連動を前提とした制度である。律令制では、実務に就く「官職」に就くためには、個人のステータスを示す「位階」が必要であった。通常の役人は、大学寮で学び、試験を経て最下位の位階から昇進を重ねる必要があったが、五位以上の高級貴族の子(三位以上の場合は孫も含む)は、この過酷なプロセスを免除された。

    この制度により、適用対象者は元服(成人)して最初にもらえる位階(蔭位)が、父祖の持つ位階に応じて自動的に決定された。たとえば、正一位・従一位の子であれば従五位下、五位の子であれば従八位下からスタートすることができた。五位以上は「貴族」として位置づけられ、租税の免除や様々な経済的・社会的特権を享受できたため、蔭位の制は貴族身分の世代を超えた再生産を保証するシステムとして機能した。

    中国(唐)との相違点と日本的特質

    蔭位の制は、中国のの制度を模倣して導入されたものである。しかし、日中の間には運用の実態において大きな相違があった。唐においては、実力主義的な官吏登用制度である「科挙」が次第に重んじられ、蔭位による登用は限定的なものへと縮小していった。これに対し、日本では科挙に相当する「貢挙(こうきょ)」の試験制度が形式化し、官吏の登用において蔭位の制が圧倒的な優位性を保ち続けた。

    これは、大化の改新以降も、日本古代の世襲的な「氏(うじ)」の連合体としての性格が根強く残ったためである。能力よりも家系や出自を重んじる日本の伝統的な身分意識が、外来の律令制度を日本風に骨抜きにし、再解釈した結果がこの制度の存続に現れている。

    歴史的影響と貴族社会の固定化

    蔭位の制の確立は、のちの日本史における政治構造に決定的な影響を与えた。この制度によって、特定の氏族、特に藤原氏をはじめとする一部の特権階層が、朝廷の主要な官職を独占することが制度的に可能となった。実力による選抜が機能しなくなった結果、血統がすべてを左右する閉鎖的な「貴族社会」が形成されることとなった。

    平安時代に進展する摂関政治や、のちの家格(近衛家や九条家などの五摂家)の固定化は、この蔭位の制がもたらした貴族主義の延長線上に位置している。このように、蔭位の制は律令国家を崩壊に導く一因となると同時に、日本の宮廷文化や公家社会の骨格を形作った極めて重要な制度である。

  • 国学(飛鳥時代)

    国学 (こくがく)

    701年頃~

    【概説】
    律令制下において、地方の各「国」に設置された官立の教育機関。郡司などの地方豪族の子弟を対象に、実務官僚としての学問や儒教道徳を教授した。中央の「大学」と対をなし、地方支配を安定させるための人材育成機能を担った。

    中央の「大学」と地方の「国学」:律令教育制度の二重構造

    大宝律令(701年)および養老律令(718年)の「学令(がくりょう)」に基づき、古代日本には体系的な官立の教育制度が整えられた。この制度は、官人の身分や役割に応じて二重の構造をとっていた。中央(都)には貴族や五位以上の官人の子弟、および文筆を専門とする東漢氏・西文氏などの子弟を対象とした大学(だいがく)が設置された。これに対し、地方の各国府(国衙)に設置されたのが国学である。

    国学の入学資格は、主に地方豪族である郡司(大領・少領)の子弟や、それに準ずる在地の有力者の子弟(13歳以上30歳以下)とされた。特に郡領(郡司の長官・次官)の子弟には入学が義務付けられており、中央集権的な律令国家が地方の指導層を統制・教育するための極めて組織的なシステムであったことが伺える。

    教育内容と指導体制:地方豪族から「律令官僚」への脱皮

    国学における教育は、中央から派遣された国博士(くにのはかせ/こくはかせ)によって行われた。国博士は、学生に対して儒教の経典である『論語』や『孝経』などを講義し、国家への忠孝や官僚としてのモラルを叩き込んだ。また、地方によっては国医師が配置され、医学の知識を授けることもあった。

    国学における学びは単なる教養にとどまらず、戸籍・計帳の作成や租税(租・庸・調)の徴収といった、複雑な律令行政を遅滞なく執り行うための実務能力の習得を目的としていた。国学で優秀な成績を収めた学生は、試験を経て中央の「大学」へ進学する道(貢生)も開かれており、能力次第で中央政界への登用や、より高い官職へと昇進するチャンスが与えられていた。

    国学の歴史的意義と地方支配の安定化

    飛鳥時代後期から奈良時代にかけて、国家はそれまでの「氏姓制度」から「律令官僚制」への移行を進めていた。地方の国・評(後に郡)を治めていた旧国造などの有力豪族は、新たに律令制下の「郡司」として組み込まれたが、彼らが世襲的に地域を支配し続けるためには、武力や伝統的な権威だけでなく、律令という文書法を理解し執行する「官僚的実務能力」が不可欠となった。

    国学は、これら在地の有力者たちを「天皇に仕える忠実な官僚」へと再教育する装置として機能した。地方豪族が儒教的教養と官僚的実務を身につけたことは、中央の命令が地方の末端にまで行き届く一因となり、日本における中央集権体制の確立と維持に大きく貢献したのである。

  • 大学

    大学

    7世紀末〜11世紀頃

    【概説】
    古代の律令制下において、官僚を養成するために都(中央)に置かれた国立の最高教育機関。式部省の管轄下に置かれ、主に貴族や実務官人の子弟を対象に儒学や法律、歴史などの専門教育を施した。地方の各国に設置された「国学」と対をなし、日本の初期官僚制を支える人材供給源としての役割を担った。

    律令体制と大学の創設

    大化の改新以降、日本は唐の制度に倣った中央集権的な律令国家の建設を進めた。その中で、複雑化する行政実務を担う知識や実務能力を持つ官僚の育成が不可欠となり、その中核機関として中央に大学(大学寮)が、地方に国学が設置された。制度としての明確な確立は大宝律令(701年)を待つが、その前段階として天智天皇期の「学職」や天武・持統期の教育制度が存在したと考えられている。

    大学の入学資格は原則として、五位以上の貴族の子弟、および文筆実務を担ってきた東西の史(ふひと)などの官人の子弟に限定されていた。これは、一定以上の身分を持つ層を対象に、国家を主導するエリート官僚を再生産するシステムであったことを意味している。これに対し、地方の国学は主に郡司などの在庁官人の子弟を対象としていた。

    多様な学科とカリキュラムの変遷

    大学では、当初は儒学を講じる明経道(みょうぎょうどう)が最重視され、経典である『論語』や『孝経』などが必須の教養とされた。しかし、律令国家の進展や貴族文化の発達に伴い、次第に学習内容が専門分化していった。具体的には、法律を学ぶ明法道(みょうほうどう)、租税や実務的な計算を扱う算道(さんどう)、そして中国の歴史や漢詩文を学ぶ紀伝道(きでんどう、後に文章道とも呼ばれる)などが成立した。

    特に平安時代初期の弘仁・貞観文化期には、漢詩文の作成能力や中国の歴史知識が官僚の教養として極めて重視されたため、紀伝道が明経道を凌いで学問の主流へと躍り出た。学生たちは学問に励み、式部省が実施する厳しい官僚登用試験(省試)の合格を目指した。

    大学別曹の台頭と大学の形骸化

    平安時代中期に入ると、律令制の弛緩に伴い大学のあり方も大きく変容した。有力貴族の子弟は、試験を経ずとも親の位階に応じて一定の官位を得られる蔭位(おんい)の制の恩恵を強く受けるようになり、大学での厳しい学問に頼る必要性が薄れていった。

    さらに、有力な貴族たちは一族の子弟を大学に通わせるための私的な寄宿宿舎・学習施設として、大学別曹(だいがくべっそう)を設置するようになった。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などが代表例である。これらは次第に大学の付属機関として公認されたが、結果として学問の私物化や学閥化を招くこととなった。やがて各学問(家学)の固定化や特定の氏族による世襲化(明経道の清原氏・中原氏、明法道の坂上氏など)が進むと、国立教育機関としての大学は次第に衰退し、名目的な存在へと形骸化していった。

  • 官位相当制

    官位相当制 (かんいそうとうせい)

    701年~

    【概説】
    個人の序列を示す「位階」と、朝廷の職務を示す「官職」を緊密に連動させた、律令国家における官僚制の基本原則。役人の地位(位階)の高さに応じて、就任できる役職(官職)が明確に規定された。これにより、天皇を中心とする体系的な官僚組織が構築されることとなった。

    律令国家の骨格をなす「官」と「位」のシステム

    官位相当制は、大宝律令(701年)および養老律令(718年)によって整備された、二官八省を中枢とする官僚機構の土台である。「位階(個人の序列・身分)」と「官職(具体的な朝廷の役職)」が厳密に対応しており、例えば太政大臣や左右大臣といった最高幹部にはふさわしい高位の位階(三位以上)が必要であり、逆に下級官吏にはそれに応じた低い位階が求められた。

    この制度のもとでは、官人はまず天皇から「位階」を授けられ、その後にその位階に相当する「官職」に任命されるという手続きをとった。これによって、個人の能力や家柄を客観的な指標である「位階」に置き換え、それをもとに効率的な人事配置を行うことが可能となった。これは、古代の氏姓制度に見られた、特定の氏族が特定の職務を世襲するあり方からの大きな転換を意味していた。

    冠位十二階から律令制への変遷

    官位相当制の源流は、推古天皇の時代に聖徳太子(厩戸王)らが定めた冠位十二階(603年)にまで遡ることができる。冠位十二階は氏族ではなく個人に冠位を授ける画期的な制度であったが、この段階では「位(冠位)」と「官(実際の職務)」との体系的な連動は不十分であった。

    大化の改新(645年)以降、中央集権化が急速に進むなかで、冠位制度は段階的に細分化・改訂されていった。天武天皇の時代には「冠位四十八階」、持統天皇の時代には「冠位六十階」へと整備され、唐の律令官制を模範としながら、日本の実情に合わせた官僚制へと進化を遂げた。これが701年の大宝律令の制定に結実し、完成された「官位相当制」として確立したのである。

    官僚制の機能と「蔭位の制」による世襲化

    官位相当制は能力主義的な側面を持つ一方で、実際には高位の貴族階級の特権を維持するための補完的制度も内包していた。その代表例が蔭位の制(おんいのせい)である。これは、三位以上の高官(貴族)の子や孫、あるいは四位・五位の者の子に対して、本人の試験成績などに関わらず、父祖の位階に応じた一定の位階を無条件に授与する特権制度であった。

    この蔭位の制の存在により、五位以上の「通貴」と呼ばれる貴族層の特権は固定化され、官位相当制が本来目指した「実力本位の官僚登用」は制限されることとなった。結果として、平安時代へと移行するにつれて、藤原氏をはじめとする有力貴族による官職の寡占と世襲化が進み、官位相当制は能力主義の道具から、家格(家柄の序列)を維持・確認するための制度へと変質していくこととなった。