忌部氏 (いんべうじ)
【概説】
古墳時代から大和朝廷の祭祀(神事)を分掌した、連(むらじ)の姓(かばね)を持つ有力な伴造(とものみやつこ)氏族。中臣氏(なかとみうじ)とともに宮廷神事を世襲し、主に神具の製作や神殿の造営などの実務を担当した。
祭祀の職能と品部を率いた氏族体制
忌部氏は、天の岩戸神話に登場する天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖神と仰ぐ氏族であり、その名は神事に際して不浄を避ける「忌み(斎戒)」を司ることに由来する。彼らは、織物を献上する麻績部(おみべ)や、神殿を造営する作木部(つくりきべ)、盾などを製作する忌部など、神事に直結する技術を持った多くの品部(しなべ)を管轄していた。本拠地は紀伊や阿波(徳島県)、讃岐(香川県)など各地に展開しており、地方の物産や技術を朝廷の祭祀へと結びつける重要な役割を果たした。大和朝廷が中央集権化を進める過渡期において、忌部氏は職能集団を統率することで、王権の権威を象徴する宗教儀礼を物的・実務的な側面から支えたのである。
中臣氏との対立と『古語拾遺』の編纂
古代の宮廷祭祀においては、精神的・言語的職能(祝詞の奏上など)を担う中臣氏と、技術的・物的職能を担う忌部氏が並び立っていた。しかし、大化の改新(645年)以降、中臣氏(後の藤原氏)が政治的な主導権を握ると、朝廷祭祀における序列でも中臣氏が優位に立ち、忌部氏の地位は相対的に低下した。平安時代初期の807年、忌部(斎部)広成は、自氏の職能の正統性と中臣氏の専権を非難するため『古語拾遺(こごしゅうい)』を著し、天皇に奉呈した。このように、忌部氏の歩みは、古代の氏姓制度から律令国家へと移行する中で、祭祀の主導権をめぐる氏族間の権力闘争が激化した歴史を物語っている。